第5回ジェンダー史学会・記念大会プログラム

日時 11月30日(日)
場所 東京大学・経済学研究科棟(東京都文京区本郷)
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/fservice/address/address.j.htm

大会参加費:一般参加1500円、会員1000円
        学生・院生(会員・一般参加共通)500円
茶話会参加費:一般参加者、会員、学生・院生1000円

○ 自由論題 10:00~12:00

部会A 司会および進行(小野沢あかね) 会場:第2教室
1)10:00~10:40 林葉子「安部磯雄における男性性の問題――断種論を中心に――」
2)10:40~11:20 嶽本新奈「優生学と結びつく『在外売淫婦』批判の検討」
3)11:20~12:00 嶺山敦子「久布白落実と戦後性教育の展開――性教育・純潔教育・家族計画――」

部会B 司会および進行(加藤千香子) 会場:第3教室
1)10:00~10:40 高橋彩「明治期の海外女子留学生と留学生政策」
2)10:40~11:20 高安桃子「アジア・太平洋戦争中の傷痍軍人結婚保護対策――傷痍軍人の妻に求められていたもの」)

部会C 司会および進行(粟屋利江) 会場:第4教室
1)10:00~10:40 片倉綾那「『緋色の産室』生まれであること――ビザンツ皇女アンナ・コムネナのアイデンティティの構築をめぐって――」
2)10:40~11:20 千代崎未央「20世紀前半の『植民地』における女性たちの課題――1938年『パレスチナ防衛のための東洋女性会議』の事例から」

○ 総会 13:00~14:00 会場:第2教室
○ シンポジウム 14:15~17:15 会場:第2教室

テーマ 「労働のジェンダー史」
 (司会)大森真紀
 (シンポジスト)
ジャネット・ハンター
「後発工業国における労働のジェンダー化の過程―戦前期日本の工場労働を中心として」
姫岡とし子
「ドイツにおける労働とジェンダー関係」
大橋史恵
「北京の農村出身家事労働者―再生産労働にみるジェンダー分業の再編成」
(コメンテーター)大門正克、リンダ・グローブ
(趣旨説明)谷本雅之

○茶話会 17:30~18:30 会場:1階コミュニティ・ラウンジ

*日曜日のため会場近辺の食堂等の多くは休業しております。昼食をご持参くださるようお願いします。なお、コンビニエンス・ストアは大学周辺でも数軒営業しております。

〔シンポジウム趣旨説明〕 
経済生活の場における性別による差異と差別は、ジェンダーをめぐる議論の一つの出発点をなすものであった。女性の生産・再生産労働の実態および言説の解明に取り組んだ諸研究は、資本主義の発展が、女性の生産労働にも大きく依拠していたこと、経済発展の中での「近代家族」の成立が固有の分業構造の定着を伴うものであったことを明らかにしてきた。それはジェンダーを分析視角とする歴史研究における当初の有力な成果であり、そこでの認識は、すでに多くの研究者の共通理解となっている。
ただし、早い段階でそうした認識が定着したことが、かえって一時期、経済生活に関するジェンダー論の視点からする歴史研究への関心の停滞を招いた感も否めない。実際、これまでのジェンダー史学会でも、経済、労働に関する報告は少なかった。
しかしその間、ジェンダーと経済、労働をめぐる問題に関し、新たな議論の進展を促す動きが歴史学の内外でもみられるようになった。女性労働に即して言えば、工場労働者や「職業婦人」の出現といった目に見える形での生産労働への参画の局面にとどまらず、農家や都市小経営における家族労働や家事使用人への着目がなされるようになり、家族・世帯内における生産労働と再生産労働の配分問題が、改めて検討の対象となっている。また女性労働の社会的に多面的な性格は、労働政策史研究における保護法制をめぐる言説分析などからも明示されつつある。一方、世界経済の急速なグローバル化や、近年の中国に象徴されるような急速な経済発展は、かつてない広範な労働移動を引き起こしつつあるが、そこでは「近代家族の性別分業」論には収まりきらない現象も観察されるようになった。広範な国内および国際的な労働移動を背景とした家事使用人の急増は、その端的な事例である。それは現代的な現象であるとともに、「近代家族」以前の構造への回帰の面を備えているようにも見える。
本シンポジウムでは、こうした近年の諸分野での研究の進展を踏まえつつ、改めて歴史における女性労働に焦点をあてる。「労働」の対象範囲には、広義の所得獲得に関する「生産労働」とともに、家事労働を中心とした人間の再生産に関わる諸労働(ここでは「再生産労働」と呼ぶ)を含めて考える。人間社会の維持と存続には、生産、再生産労働の双方が不可欠であった。それを誰がどのように担っていたのか、そしてそこには、どのようなジェンダー分業の構造が存在したのか。本シンポジウムはこれらの問いに、日本、ヨーロッパおよび中国を対象地域とする3つの報告と、報告に対する総括コメントによってアプローチする。報告を通じて工場労働、家内労働、家事労働といった多様な女性労働の実態が浮き彫りになり、生産労働と再生産労働の社会的編成の特質が明らかになることが期待される。それを通じて、ジェンダー分業を規定する歴史的、構造的要因の解明が進展することを願いたい。


〔自由論題発表要旨〕
A部会 優生学をテーマとした部会

1) 安部磯雄における男性性の問題―断種論を中心に:林 葉子
本発表は、1920年代から敗戦直後までの安部磯雄の言説を分析し、彼の思想において男性性の問題がいかに重要な位置を占めていたかという点を指摘するものである。特に注目したいのは、彼が廃娼運動や産児制限運動との関わりにおいて主張していた断種論の内容である。
先行研究においては、優生学と不可分であった安部の断種論はナチスの断種法(1933年)の影響によるものだと考えられてきたが、彼の断種論はすでにサンガー来日直後(1922年)から、くりかえし論じられている。そして、代表的な産児制限論者として知られる安部が一貫してこだわり続けた「産児制限法」は、精管結紮であった。彼は「悪遺伝」の人々の精管結紮を「国際平和主義」と結びつけて推奨する一方で、太平洋戦争開始後は、日本が戦争に負ければ「日本の男子」は全員「去勢」されるという論理によって戦争を支持した人物でもある。本発表においては、安部の精管結紮へのこだわりがどのように「男性的性質」をめぐる議論と結びつき、それがいかにして彼の「平和」についての理論や具体的な
政策論として展開されていったかということを紹介したい。そして、「平和」論者であったはずの安部が「この戦争を最後の一人になるまで遣らねばならない」と強硬に主張するに至った経緯について、彼の男性性論に着目して分析したい。
また、日本の廃娼運動や産児制限運動のリーダー的存在であった安部の思想において男性性の問題が重要な意味を有していたということは、安部個人の評価にとどまらず、廃娼運動や産児制限運動全体の問題としても考察されるべきである。たとえば廃娼運動は、先行研究においてはしばしば「女性運動」であるとみなされ、廃娼論については、娼妓という女の身体をめぐる議論ばかりが着目されてきた。しかし発表者は、この社会運動が男たちによって担われていた側面や廃娼論が男性身体をめぐる議論として論じられていた点にも注目すべきであると考えている。すなわち、安部磯雄における男性性の問題について考察することは、彼が主導した社会運動を「男性史」として捉え直すための必須の課題なのである。
なお、本発表は、1900年代から1920年代半ばまでの安部の廃娼論および産児制限論について論じた拙稿(「廃娼論と産児制限論の融合―安部磯雄の優生思想について」、『女性学』、日本女性学会、13号、2006年)の続編として、新たに1920年代以降の男性性の問題に焦点をあてて考察しようとするものである。また本発表は、開国以降1910年代までの廃娼論について、特に〈男たちの廃娼運動〉に着目して論じた博士学位論文(『女たち/男たちの廃娼運動―日本における性の近代化とジェンダー』、大阪大学大学院文学研究科・博士学位論文、2007年)で示した課題を継続して考察するものである。

2) 優生学と結びつく「在外売淫婦」批判の検討: :巌本新奈
今日、明治以降の日本における廃娼運動史研究には一定の蓄積があり、廃娼運動家らの言説を分析することによって当時の彼ら/彼女らが内包していた「娼妓」への蔑視観や天皇制ひいてはナショナリズムへの親和性などが明らかにされている。廃娼運動家らの思想的背景は確かに上の指摘のとおりだと思われるが、当時の日本において廃娼運動家らが問題視していた売春をする女性には、「公娼」、「私娼」、そして「在外売淫婦」という三つのカテゴリーが存在していたことを鑑みると、各カテゴリーに対する見方あるいは批判がそれぞれどのような論拠に基づいていたのかをカテゴリーに即して比較、検討することもまた必要だと思われる。こうした問題意識に基づき、本発表では、1916(大正5)年頃から廃娼運動団体のひどつである廓清会の機関誌r廓清』で取り上げられる「民族衛生論(=eugenics)」、すなわち優生学的見地からの論説が、廃娼運動とどう結びつくのかを、主に「在外売淫婦Jを中心に検討したいと考える。
簡潔に述べるならば、「公娼」に対して優生学は、「純潔なる家庭」に性病を持ち込む悪所として公娼制度批判を支えたが、他方、「在外売淫婦」に対しては、「民族」を問わずに売春することを問題視させるに至った。これは、これまでの廃娼運動団体による「在外売淫婦取締り請願」の主張にはなかった観点である。優生学という「科学的」な言説の導入が、「民族」、「血」、そして、「性」を結びつけ、問題系として捉えることを可能にしたといえる。
また、当時の社会の中には、少なからず「在外売淫婦Jを必要悪として擁護する主張がみられた。これは、海外における日本人男性の「性的慰安」のために「在外売淫婦Jを認めるといった論であり、1897(明治29)年に書かれた福沢諭吉の「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」という記事にも見出すことができる。しかし、優生学的観点の導入によって、「在外売淫婦Jの売春相手がより焦点化されたことに伴い、各地に広がる彼女らの売春相手が、日本人男性ではなく「見知らぬ異人」であることが強調されることになる。
優生学とは、科学的な装いのもとに、「民族」を優劣でもって推し量り、優秀で純粋な「種」をいかに維持するかが国家の盛表を決するとする論である。その論理が、「在外売淫婦」へ敷衍されたとき、もっとも問題視されたととは「民族」を問わずに売春をすることであった。「日本民族」以外に売春をする行為は、「他民族」との混血によって「純血」である「血」が汚されるといった嫌悪や恐怖入と容易に転化することになったのである。優生学は、廃娼運動家らが長年続けてきた「在外売淫婦取締り請願」への論拠として、以上のような観点を与えたということが出来るだろう。

3) 「久布白落実と戦後性教育の展開―性教育・純潔教育・家族計画―」:嶺山敦子
日本キリスト婦人矯風会(以下、矯風会)は、1886年に設立され(当時の名称は東京婦人矯風会)、廃娼運動、婦人参政権運動、平和運動などに取りくんできた。そういった活動の中で、はじめは廃娼後の対策として、また、1930年代半ば頃から、「純潔日本の建設」という目的を達成するために性教育にも力を入れてきた。矯風会では、性教育を自らの使命と感じていた宣教師夫人C・Bオールズ(1874-1936)が各地で性教育の講演を行ない、オールズの死後は、特に久布白落実(1882-1972)が中心となって性教育に取り組んできた。「純潔日本の建設」とは、久布白が1935年度に渡米し、研究してきたことの発表として翌36年に現れたものであるが、その中で、久布白は「性教育・純潔教育」の必要性を主張している。久布白は早くから性教育に関心を持っており、30年代の『婦人新報』(矯風会機関誌)に性教育に関する文章を多く残し、性教育論を展開していた。しかしながら、戦時色が濃くなるにつれ、徐々に性病対策等に重点を置くようになり、その性教育論についてはあまり語られなくなり、国策へと統合されていくのである。
さて、敗戦後の社会においては、男女間の道徳の退廃、不良青少年の増加、売春行為が顕著になるということに、国家が危機感を抱いたことから「純潔教育」の必要性が主張されるようになった。そういった中で、1947年に、男女間の道徳確立を目的とした「純潔教育委員会」が文部省で発足している。戦後、念願の婦人参政権を得て久布白が選挙に出馬する間(1945~50年)、『婦人新報』における性教育関連の記事は、ガントレット恒子や千本木道子らが執筆していた。久布白は性教育の取り組みを一時中断したかに見えたが、「純潔教育委員会」の委員に名を連ね、49年9月には純潔教育シリーズの第2集として、『純潔教育はなぜ必要か』という書物を出版している。その「純潔教育委員会」には、山室民子、植村益蔵(救世軍)など、キリスト者が多く登用された。矯風会のメンバーも久布白、先述したガントレット恒子、千本木道子、また、小笠原嘉子、村岡花子と5人もその委員会に所属していた。このように久布白をはじめとした矯風会のメンバーたちは戦後の性教育(純潔教育)の出発点に関わりが深いことがうかがえる。
このように、戦後性教育では、「純潔教育」が政府の政策として表されたが、久布白が戦前から主張していた「純潔」は政府が言う「純潔」と同じものなのであろうか。本発表では、1945年から60年頃の矯風会機関誌『婦人新報』や文部省純潔教育シリーズ等の文献から、戦後における久布白の性教育論の変化、戦前からの連続性というものを捉えていきたい。また、「家族計画」は戦前に矯風会が全く触れていなかったテーマであるが、50年代の『婦人新報』に登場するに至っている(久布白、1955)。戦後の久布白の性教育論には、性教育、純潔教育に加え、家族計画の視点も導入されていく。いかにして、家族計画の考えが導入されるのか、それに至るまでの考えの変化なども詳しく見ていきたいと考えている。
出発点が純潔教育であった、戦後の性教育について、ジェンダーの視点を踏まえ、1945年から60年頃の久布白落実の活動を分析していくことで明らかにしていきたいと思う。報告者は昨年のジェンダー史学会第4回大会において、「戦前における久布白落実の性教育論をめぐって」と題し、発表を行なったが、本報告は、それをさらに発展させたものである。

B部会 日本における19世紀末から20世紀中ごろにいたるジェンダー状況

1) 明治期の海外女子留学生と留学生政策:髙橋 彩
明治維新前夜以降、欧米列強の社会とそこにある知識を学ぼうと、多くの日本人が渡航・留学した。近代国家の建設には、欧米の社会・事物を知る人材が必要であり、西洋の知識の摂取を重視した明治政府は、その初期より国家による海外留学制度を整備していった。
近代国家としての発展には、西洋で学んだ日本人―海外留学生―の存在が不可欠であったにもかかわらず、留学生の歴史についての研究は十分とは言えない。国による留学制度、私費での渡航、欧米の大学への長期に渡る留学から短期の視察まで、「留学」が多様でとらえようがないというのが主な原因と考えられる。具体的には、留学とは何か、留学生とは誰をさすのか、という定義の問題と、国の制度による留学は別として、私的な留学を記録や統計上で体系的にとらえることが困難だという要因がある。
それゆえ、様々な史料を用いて留学生の足跡を把握しようとした渡邊實氏が1970年代にまとめた詳細な研究は貴重であり、留学生史の礎を築いたといっても過言ではない。しかし、大学の国際性が問われる今、歴史学の立場からあらためて近代日本における国家としての留学生政策を再考し、議論を進めるべきではないだろうか。
今回、報告者が焦点をあてるのは、国の留学生制度で海外に派遣された女子留学生である。女子留学生の分析は、単に少数の女性を跡付けるものではなく、性差を意識した留学生政策をあぶりだすという意味を持つ。そして、女性史・ジェンダー史の研究蓄積をもとに、留学生史にアプローチすることで、近現代史における国家と国民との関係性の考察に、新たな視点を加えるものである。
明治期、文部省の留学制度により海外に派遣された女子留学生は11名である。数の上では派遣留学生のほんの一部だが、単なるパイオニアやマイノリティとして見過ごせない点がある。帝国大学や直轄学校の教師養成が主目的とされた制度の中で、女性にも欧米での知識摂取とその紹介が求められていたということ、そして、全体として、その知識摂取の領域が男性のそれとはちがっており、性役割が反映されていたということである。つまり、女子の国費留学生の考察から、明治国家と女性の関係の特色が浮かび上がってくる。
本報告では、明治期に国の派遣により留学した女性たちとその制度について考察する。留学生の派遣目的や国家や社会が彼女たちに寄せた期待には、性差文化がどのように投影されていたのだろか。彼女たちは留学後に、教育を通し、あるいは広く社会において、何を行い、発信していったのだろうか。近代国家と新しい社会で期待された女性の役割の構築について、女子留学生という側面から論じる。

2) 「アジア・太平洋戦争中の傷痍軍人結婚保護対策-傷痍軍人の妻に求められていたもの」:高安桃子
本発表では、アジア・太平洋戦争中の傷痍軍人結婚保護対策を通して、当時、傷痍軍人の妻の役割として考えられていた、現代にも通じる規範について、『家の光』(1925~1945)、『婦女新聞』(1936~1941)等や当時の文献に基づき分析を行う。
日中全面戦争開始後、 未婚傷痍軍人の結婚問題が注目され始め、戦争の拡大と呼応するように結婚斡旋のシステムが拡大した。女性団体や個人により実施されていた結婚斡旋活動であるが、太平洋戦争が開始された昭和16年 以降、全国的な結婚斡旋の仕組みが整えられていく。
当時の傷痍軍人援護政策においては、その職業的自立に重点がおかれ、傷痍軍人には「再起奉公」に打ち込み、健常者並みとなるよう目指すことが求められていた。傷痍軍人結婚保護対策の中では、傷痍軍人を性的弱者として捉え、その結婚を保障していくことが目指された。また、傷痍軍人の妻には事前に様々な条件が設定されることで、結婚後の妻の苦労は自己決定の結果であり、個人の理解や修養が足りないことから生じているとされ、社会の責任が不問に付されていた。
傷痍軍人の妻には、夫の手足となってその「再起奉公」を助け、常に朗らかな態度で、夫を「どん底」の精神状態から引き上げ、家事・育児・就労の役割を遂行することが求められた。介助を、育児のようにケアをする行為として考えることで、傷痍軍人夫婦は母子関係との類似が言われた。傷痍軍人との結婚を考える女性は、その境遇に同情し「私が救ってあげる」という使命感を持っていたことが伺える。妻による「献身的な愛」には、傷痍軍人を不幸な者として見る意識が内在していたと考え、この点についても分析を行う。
傷痍軍人の妻に対し求められていたイメージ や役割は、現代の男性中途障害者の妻に期待される役割も充分通じるものがあり、これは太平洋戦争下で強化されてきたものであったといえるのではないだろうか。

C部会 日本以外をテーマとした部会

1) 「緋色の産室」生まれであること――ビザンツ皇女アンナ・コムネナのアイデンティティの構築をめぐって――:片倉 綾那
本報告では、ビザンツ皇女アンナ・コムネナのアイデンティティの形成過程を検討する一環として、「緋色の産室生まれの長子であること」という彼女の立場が、彼女自身と彼女の生きた時代において、どのような意味を持っていたのかについて考察する。
アンナ・コムネナは、コムネノス王朝の初代皇帝アレクシオス1世コムネノス(位1081-1118)の長子として、1083年に「緋色の産室」で誕生した。彼女は自身の父アレクシオス1世の功績を描いた著作『アレクシオス1世伝』の著者であり、中世キリスト教社会における唯一の女性歴史家として知られている。その一方で彼女は、自身の帝位継承への権利を主張しつつ、夫を担ぎ、実弟ヨハネス2世(位1118-1143)に対し、2度(1118年と1119年)にわたり陰謀を起こした首謀者としての一面も持っていた。報告者はこれまで、アンナの陰謀の首謀者としての一面に注目し、彼女のアイデンティティを考察するにあたり看過できない事件として、2件の陰謀事件をとらえてきた。そこで今回は、そのような彼女のアイデンティティが形成されていくことになる出発点、すなわち彼女の誕生した状況に焦点を当てたい。
アンナが生まれた場所「緋色の産室」とは、皇妃専用の産室であり、部屋全体が緋色で飾られていたことからそのように呼ばれる。そこで誕生した皇子女は「緋色の産室生まれ」として、特別な存在とみなされていた。
アンナは、生涯を通じて「緋色の産室生まれの長子」である自身の立場を誇りとしており、陰謀を起こす際の拠り所としていた。それでは、彼女のアイデンティティはどのようにして構築されていったのか。その過程を検討するために、次のような手順をふむ。
最初に、コムネノス王朝創設期における「緋色の産室生まれであること」と「長子であること」の意義について検討する。次に、「誕生にまつわる儀式」について考察する。その際、史料として、アンナの著作『アレクシオス1世伝』、そしてコンスタンティノス7世ポルフィロゲネトスによる『儀式の書』を用いる。アンナが誕生した1083年は、彼女の父アレクシオス1世がコムネノス王朝を創設したばかりで、政治基盤を確立させていく時期であった。そのような状況下にあって、皇帝の子供が誕生したという出来事は、当時の宮廷社会にどのような影響をもたらしたのかを考察する。ここでは、アレクシオス1世の長子アンナの誕生の状況と、彼女の弟で長男ヨハネスの場合とを検討する。アンナとヨハネスは帝位をめぐるライバルであり、アンナは長子である自身の立場を、ヨハネスより勝っている点としてみなしていた。長子であり長女でもあるアンナの事例と次子であり長男でもあるヨハネスの事例とを考察することで、緋色の産室生まれの子供達の間に、待遇の面で性差があったのか、そしてあったとすれば、長子概念にどうかかわっていたのかを検討していきたい。

2)  20世紀前半の「植民地」における女性たちの課題-1938年「パレスチナ防衛のための東洋女性会議」の事例から:千代崎未央
本発表の目的は、1938年10月にエジプト・カイロで開催された「パレスチナ防衛のための東洋女性会議」に参加した中東地域の女性たちの主張や会議の背景について検証することで、当時の中東地域、主にエジプトの女性たちが置かれていた歴史的・社会的状況を明らかにすることにある。主な資料は、会議を主催したエジプトのフダー・シャアラーウィー(1879-1947)が会長を務めていた「エジプト女性連盟」(1923年創立)発行の会議録(al-Mar’a al-?Arab?ya wa Qa?a?ya Filas??n: al-Mu?atamar al-Nis??? fi-l-Sharq. al-?Itti??d al-Nis?? al-Mi?r, 1938. 『アラブ女性とパレスチナ問題-東洋女性会議』エジプト女性連盟、1938年)である。
19世紀末にイギリスの支配下に置かれたエジプトは、1919年革命で反英民族独立運動が最高潮に達し、1922年に王国としての独立を果たすものの、実質的にはイギリスによる支配が継続していた。この名目的独立以降のエジプトにおいては、王家や国内の政治勢力が覇権を争いながら、イギリスからの完全独立が目指されていく。このような状況で民族独立運動に参加しつつ、一方で女性の教育や参政権などのための運動を展開していたエジプト人女性たちは、中東地域の女性たちとの連帯の強化にも取り組み始めていた。元々歴史的に結びつきが強い地域ではあったが、この時期中東地域の女性たちを結びつけた決定的要因は、植民地主義と「パレスチナ問題」であった。各地で反植民地主義運動を行っていた中東地域の女性たちは、自分たちの問題と重ね合わせながら「パレスチナ問題」の解決を目指し、カイロに参集したのである。中東地域の女性たちが植民地主義により強い抵抗を示すようになったことは、IAW(International Alliance of Women)の会議に参加するなど、欧米の女性たちとの親交も深かった「エジプト女性連盟」のメンバーたちが、パレスチナや中東の問題に対するIAWの姿勢に徐々に疑問を投げかけるようになっていたことにも現れている。
しかしながら、1919年革命以来反英のシンボルでもあったワフド党主導で行われたイギリスとの同盟条約締結(1936年)やその結果としてのエジプト民衆のワフド党への不信、アラブ大反乱(1936年)やパレスチナへのユダヤ移民の増加、ミュンヘン会談(1938年)など、エジプトや中東の女性を取り巻く国内、地域、国際的状況はより複雑なものとなっていた。記録集に収められた書簡や発言などからは、複雑な立場に置かれたエジプトや中東の女性たちの「駆け引き」も伺うことができる。「東洋女性会議」を例として、「植民地」の女性に複雑な立ち位置を課す歴史的・社会的状況を考察する。

2008年度公開シンポジウム

テーマ:「先住民族であり女性であること:自律と共生のジェンダー史」
日時:2008年5月17日(土)13:00-16:30
会場:北海道大学 人文社会科学総合教育研究棟W103
〒060-0810 札幌市北区北10条西7丁目
(札幌駅北口より徒歩約15分)
ジェンダー史学会、北海道大学ジェンダーに関する研究教育体制整備検討WG共催(北海道大学サステナビリティ・マラソン参加行事)

空港・JR札幌駅から会場までのアクセスは、以下の北大HPをご覧下さい。
*駐車場はありませんのでお車での御来場は御遠慮下さい。

札幌キャンパスまでのアクセス
http://www.hokudai.ac.jp/footer/ft_access.html
札幌キャンパス地図
http://www.hokudai.ac.jp/bureau/map/s-campusmap.pdf

プログラム
コーディネータ・司会:瀬名波栄潤、高橋彩
開会 13:00
挨拶 北海道大学理事・副学長 林忠行 
司会・問題提起 コーディネータ
○第I部 報告 13:10-14:50
報告I 多原良子氏(北海道ウタリ協会札幌支部事務局次長)
「複合差別の概念がアイヌ女性の主体的運動に、そしてエンパワーメント」
報告II アンエリス・ルアレン氏(日本学術振興会外国人特別研究員(北海道大学大学院地球環境科学研究院))
「マイノリティ女性からマジョリティ女性へ:先住民族アイヌ女性と日本に於ける複合差別」
報告III 佐藤円氏(大妻女子大学比較文化学部准教授)
「アメリカ先住民史研究における女性とジェンダー」
○第II部 コメントと全体討論 15:15-16:20
コメント:小野有五氏(北海道大学大学院地球環境科学研究院教授)
全体討論
挨拶 ジェンダー史学会代表理事 長野ひろ子
閉会 16:30

遠方から参加される皆様へ
宿泊は各自ご手配下さい。主要都市からはパック旅行等もあるかと思われますが、ご参考までに会場付近のホテル情報を以下ご紹介します。

札幌宿泊情報
札幌の宿泊施設情報は、市役所HPの宿泊施設一覧をご参考下さい。
http://www.welcome.city.sapporo.jp/access/inn.html

会場に近いホテルは、「2.札幌駅北口付近」です。
●札幌アスペンホテル
●東横イン札幌西口北大前
は北大のすぐそばにあり、会場まで徒歩10分程度です。

「1.札幌駅南口付近」でも以下のホテルは、会場まで徒歩20分程度です。
●JRタワーホテル日航札幌
●センチュリーロイヤルホテル
●札幌第2ワシントンホテル
●京王プラザホテル札幌
●札幌ワシントンホテル

気候・季節のイベント
最低気温はまだ10度以下と思われます。一枚多くお持ちになり、お出かけ下さい。
参考サイト:ようこそ札幌(札幌は季節の薫る街)
http://www.welcome.city.sapporo.jp/season/index.html

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