第8回ジェンダー史学会大会プログラム

日時:2011年12月10日(土)
場所:明治大学駿河台校舎リバティタワー
後援:明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター

受付開始 9:30~
(リバティタワー1階ロビー)
自由論題発表 10:00~12:00
総会 13:00~14:00
シンポジウム 14:15~17:15
茶話会 17:30~18:30
大会参加費 一般参加1500円/ 会員1000円
学生・院生(会員・一般参加共通)500円

10:00~12:00 自由論題発表プログラム
部会A:男性性 (1094号室)
司会および進行 兼子 歩
10:00~10:40 北岡 幸代
「ヴァルター・ラーテナウの『男らしさ』の価値形成過程―同化意識と「勇気」のはざまで:1897 - 1912―」
10:40~11:20 伊東 久智
「大正期「青年」政治運動の男性性―立憲青年党と和田(奥)むめおを事例として―」
11:20~12:00 酒井 晃
「『完全な男性』像と夫のセクシュアリティ―1945~1960年代日本における男性性―」

部会B:表象 (1096号室)
司会および進行 木村 朗子
10:00~10:40 乾 淑子
「戦争柄着物の中にあるメディア―絵葉書、錦絵、ニュース映画など」
10:40~11:20 梅野 りんこ
「近代黎明期のミソジニー―ルイ14世時代のオペラ『メデイア』に見る女性の表象―」
11:20~12:00 洲崎 圭子
「子を産めないメキシコ人女性の<孤独>―ロサリオ・カステリャノス『真夜中の祈り』(1962)を巡って」

部会C:福祉 (1103号室)
司会および進行 安武 留美
10:00~10:40 嶺山 敦子
「廃娼運動と久布白落実の売春観―『婦人新報』における論稿から―」
10:40~11:20 今井 小の実
「なぜ、婦人方面委員は“Female Professional"として成立しなかったのか―大阪府の例を通して―」
11:20~12:00 木村(横塚)裕子
「20世紀初期の日米における母性主義的社会改革―米国の母親年金運動と日本の母子扶助法制定運動の比較考察―」

部会D:教育と職業 (1106号室)
司会および進行 井上 惠美子
10:00~10:40 渡部 周子
「明治期女子教育における科学思想の受容―「生殖能力」の管理という視点から」
10:40~11:20 長沼 秀明
「『女性専門職』をめぐる大正期の日本社会―臨時教育会議の議論から―」
11:20~12:00 山脇 野枝
「神戸女学院第一期卒業生阿部マサについて」

部会E:結婚 (1105号室)
司会および進行 小玉 亮子
10:00~10:40 谷村 和枝
「花嫁斡旋という名の売買―フィリピンに始まり、韓国から中国とアジアを縦断した「国際結婚」ビジネスと花嫁たち―」
10:40~11:20 北原 零未
「フランスにおける事実婚(コンキュビナージュ)の歴史と現在―国家的容認と排除―」

部会F:パネル 「女性美術家と戦争」 (1093号室)
代表 北原 恵
11:00~12:00
発表1:小勝 禮子
「戦時下の日本の女性画家は何を描いたか―長谷川春子と赤松俊子(丸木俊)を中心として」
発表2:北原 恵
「戦時下の長谷川春子研究から見えるもの―ジェンダーと『戦争画』」
コメント:加納 実紀代

自由論題要旨
部会A

発表者名:北岡 幸代
所属: 京都大学大学院 人間・環境学研究科
発表題目:ヴァルター・ラーテナウの『男らしさ』の価値形成過程―同化意識と「勇気」のはざまで:1897 - 1912―

ヴァルター・ラーテナウは、1867年にベルリンのドイツ・ユダヤ人の家系に生まれ、1922年6月24日に、外務大臣在任中に極右勢力の若者によって暗殺された同化ユダヤ人である。彼の社会的活動は、晩年の政治家としてのものと、総合電気会社(AEG)の経営幹部としての経済活動が知られているが、加えて、社会提言や時代批判を行う著作家でもあった。
ラーテナウの論壇への本格的な登場は、彼の最初の単行本『時代批判』(1912年)のS. フィッシャー社からの出版だといえるが、この著作は、当時の先端技術を駆使した電気会社の経営者である彼自身が、産業分野で自らが牽引する近代社会を批判した書として注目を浴び、出版年だけでも50を超える書評が新聞・雑誌に掲載された。そのなかの肯定的な書評の多くに見受けられる表現が、「男らしい評論」という賛辞であった。
これは、社会の近代化が進むにつれて、豊かだった人間精神や文化が画一化し衰退していくと捉えたラーテナウの危機感から、その近代社会が失いつつある理想的人間像として、「勇気」や「忠誠心」といった「美徳」を備えた指導的支配者としての資質と男らしさ」を重ねて称揚したことによる。しかしながら、この「男らしい」と評価されたラーテナウの理想的人間像は、同時に、「種族的=有機体論的起源」にこだわる、人種主義的なゲルマン民族イデオロギーと重なるものでもあった。
今回の発表では、『時代批判』出版以前の1897年から政治文芸週刊誌『未来(Die Zukunft)』に掲載されていた彼のエッセイ・論考の内容、そして雑誌『未来』の編集者マクシミリアン・ハルデン(1861-1927)との親交、言説のやり取りを軸として、ラーテナウが『時代批判』において提示した、理想的人間像の根幹を成す、「最高の美徳」としての「男らしさ」という概念の獲得・形成過程を、ラーテナウの同化ユダヤ人としての社会的立場、また当時の社会思潮、彼の文化的知的交流との関連性から探り、分節化したい。そこからは、ラーテナウとハルデンの同化ユダヤ人としてのドイツ社会への強烈な同化意識と挫折感、転じて貴族主義的精神、ニーチェへの傾倒といった要素の影響が窺える。
その際、ラーテナウの「男らしさ」の価値形成の時空間を、「男性史」と「感情の歴史」の交差の場という視座で捉えてみたい。それは、彼の「男らしさ」の価値観を支える、「勇気」、「高貴さ」、「忠誠心」といったさまざまな「男の感情語」の、時代に規定された意味に目を配り、同時代の少なくともラーテナウやハルデンと知的空間を同じくしていた人々と、そうした言葉を媒体にしてどのような価値を共有していたのかを探ることでもある。さらにはこの「男の感情語」を経由して、当時の国民国家において「種族的=有機体論的起源」や植民地主義へと傾斜する、新興中産階級の思潮を考察する手掛かりとしたい。

発表者名:伊東 久智
所属:早稲田大学大学史資料センター
発表題目:大正期「青年」政治運動の男性性―立憲青年党と和田(奥)むめおを事例として―

本報告は、女性運動家の加入という一種の例外的事例に着目することによって、大正期「青年」政治運動の男性性を可視化することを目的としている。具体的には、彼・彼女らの言説及び日常生活の分析を通じて、一つの「青年」政治集団のホモソーシャルな集団性を明らかにしようとするものである。
日露戦後から大正期にかけての帝国議会周辺には、「青年党」を標榜する多彩な政治集団が簇生し、活発な院外活動を展開した。第一次大戦後における若者の政治的活性化を準備し、昭和戦前期には代議士へと成長してゆく彼らを、本報告では「院外青年」と定義し、対象化する。
そのなかでも本報告が特に取り上げるのは、橋本徹馬(1890~1990)によって率いられた立憲青年党である。1912年の結党以来、同党は選挙権拡張運動(日露戦後)→対外硬運動(第一次大戦期)→労働運動・普選運動(第一次大戦後)とその運動目標をすげ替えつつも、加藤勘十や尾崎士郎といった後に名を成す有能な若者を吸収し、絶えず「院外青年」運動の先頭にあった。さらにより重要なことは、同党には女性メンバーが存在したという事実である。
具体的には、「婦人記者」として同党の機関誌『一大帝国』に筆を執った和田(奥)むめおの存在がそれである。この事実は他集団には認められない例外的事例といってよいが、そうであるがゆえに、かえって「院外青年」運動全体の男性性を浮かび上がらせる格好の事例であるともいえる。
研究史を顧みれば、加藤千香子氏の先駆的研究が明らかにしているように、「青年」とはそれ自体男性性を色濃く帯びた概念であるが、それが実際の政治運動においてどのように表象され、あるいは機能したのかという点についてはいまだ手つかずといってよい状況にある。また、政治(運動)史研究におけるジェンダー史的観点の欠如については、今更贅言を要さないであろう。
そこで本報告では、①「彼ら」の女性観と婦人問題への取り組み、②立憲青年党のホモソーシャリティという二つの問題を立て、各々次のようにアプローチを試みたい。
①「彼ら」の女性観と婦人問題への取り組み
立憲青年党メンバーの女性観及び婦人問題への取り組みを、その機関誌における特集記事(「所謂『新しき女』の問題」『世界之日本』4巻6号、1913年6月や「私娼撲滅号」=『一大帝国』1巻6号、1916年7月)を素材として前提的に把握する。
②立憲青年党のホモソーシャリティ
はじめに和田(奥)むめおの加入の経緯と記者活動の実態とを跡づける(「彼女」はなぜ「彼ら」の運動に身を投じたのか、またそこでどのような位置づけを与えられたのか)。その上で、機関誌にしばしば掲載された遠足記事から、彼・彼女らの日常生活を辿り直し、その集団性をジェンダー史の観点から意義づける。

発表者名: 酒井 晃
所属: 明治大学大学院博士後期課程 文学研究科史学専攻日本史専修
発表題目:「完全な男性」像と夫のセクシュアリティ―1945~1960年代日本における男性性―

戦前日本において家庭という概念が形成され、戦後社会においてそれが浸透した。男性=労働者/女性=主婦という性別役割分業が一般化し、夫婦という「私的」な場が設定された。その「私的」な場において、夫婦が諍いなく家庭生活をおくるために、「性愛」をどのようにおこなうべきかが大きな問題として論じられた。
本報告では、敗戦から1960年代までのメディアを通じた「性愛」の語りのなかに、どのような男性性が語られたのか、その歴史的過程を明らかにするものである。分析の対象となるのは医学者・精神分析家などの語りである。
1930年に一部が翻訳されたが、取締りにあったヴァン・デ・ヴェルデ『完全なる結婚』は1946年に完訳が出版され、ベストセラーとなった。その内容は①「科学的」知識を動員し、②男性と女性の差異を身体的・心理的レベルで語り、③夫婦を単位として、男性が女性に対して性の「技法」をおこない「性愛」の一致を強調するように語った。ヴェルデは夫婦の和合を「高位結婚」と称し、その重要性を語った。このような性の「技法」によって「快楽としての性」が男女にもたらされるとともに、終着点は「生殖としての性」が切り離されずに結び付けられている。
『完全なる結婚』を通じて、「日本人男性」が性の「技法」の担い手として、どのような「性愛」を営む必要があるかを精神分析家高橋鐡、医学者謝国権・奈良林祥などが発言をおこなった。彼らは、男女の身体的差異や特徴を「科学的」に啓蒙し、戦前の「家」(「封建的」)を批判し、「性の解放」を主導した。彼らは性を夫婦と「それ以外の性行動」に分類し、夫婦の性の一致を理想化した。「それ以外の性行動」すべてが否定されたわけではないが、とりわけ「異常性欲」の存在によって、夫婦の性が「正常」なあるべき姿として示された。
「完全な男性」像とは、そのような「異常性欲」ではない、「健康」な肉体や精神を持った成人男性である。彼らは男性が「完全な男性」になるために、性器の劣等感や射精の遅速、あるいは女性の身体を知悉することをアドバイスし、夫たる男性は妻を「指導」しなければならないと語った。妻への「配慮」が提示され、夫の「義務」とされた。
また「完全な男性」像と「日本人」の性の「実態」が重なりあっていた。『キンゼイ報告』によって、欧米の「実態調査」の手法が紹介され、日本でも多くの実践例が報告された。「実態調査」は「客観的」な装いをし、様々な性現象や性行動を等価に分類する一方で、性現象や性行動をラベリングし囲みこむことによって、望ましい性行動(夫婦の性)を価値基準の上位に置く。日本の「実態」を調査することは、日本人男性の性に対する「欠落」や改めるべき点などを検討するうえで重要な役割を果たした。
これら二つの言説群は夫婦の「性愛」の一致を「日本」に定着することを企図し、男性が主体性を発揮するよう期待された。

部会B

発表者名:乾 淑子
所属:東海大学 国際文化学部
発表題目:戦争柄着物の中にあるメディア―絵葉書、錦絵、ニュース映画など

戦争柄着物とは、明治時代の日清戦争期から太平洋戦争までの約50年間において近代的な戦争に関するモチーフ等を配した着物およびその周辺の和装品を指す(伝統的な武具、例えば鎧兜や弓矢などを用いる意匠は現代でも吉祥柄として男児の着物に用いられるが、それは本研究から排して考察するものとする)。着物には従来から扇型、色紙型などに切り抜いた図柄を配する伝統があり、そのバリエーションの一つとしての戦争に関するモチーフ、例えば、軍艦、野砲などの兵器を囲い込んで表現した戦争柄着物がある。
日清戦争の時には未だ写真報道が十分ではなかったために、想像による錦絵を用いて戦況を伝えることが行われた。その影響か戦争柄の縮緬には、錦絵風の図柄で戦場などを表したものが非常に多い。縮緬の生地は主に襦袢として用いられたものであり、襦袢としては男性用と女性用が同じである場合がある。特に戦争柄は特殊な意匠であるために、女性においては花柳界の女性にのみ着用されることのが通常であった。また高価であったために一般の家庭で用いられるものではない。錦絵の中からどのような場面が選ばれて意匠化されたのかを分析する。
日露戦争時においては絵葉書が流行したために、戦場風景の絵葉書や軍艦の絵葉書をそのまま図柄としたものがある。また、新聞紙面を模した図柄も存在する。日本の郵便制度では初め官製はがきのみが許されたが、明治33年から私製はがきを使用することができるようになり絵葉書が流行する。ただし当時の郵便代金は庶民にとっては高額であったから、あまり日常的に用いるものでもなかった。日露戦争に際して戦場からは無料で葉書を送ることができるようになったために、一挙に絵葉書のブームが到来した。その結果として絵葉書に戦争表現を盛り込んだ意匠が着物にも現れたのであり、またその時代がアールヌーボーの流行期とも重なったために、ヌーボー風にアレンジされた戦争柄が意匠化されたのである。
その後、メディアの変遷に伴って、着物の意匠も変化する。映画(同盟通信社によるニュース映像)、軍歌レコード、新聞などのタイアップによるイメージの形成が盛んになり、それもまた着物に取り入れられていく。そのようなメディアと戦争柄着物との関連を当時の社会情勢のなかにおいて考察するものである。

発表者名:梅野 りんこ
所属:横浜国立大学環境情報学府博士課程後期
発表題目:近代黎明期のミソジニー―ルイ14世時代のオペラ『メデイア』に見る女性の表象―

ギリシャ神話の中に、蛇の髪のメデューサと並ぶ恐ろしい女性として、メデイア(フランス語読みではメデ)がいる。彼女はギリシャから遠い東の国に住む魔術に長けた王女であった。彼女は、父の持つ金羊毛を奪いにきたギリシャの英雄イアソン(同:ジャゾン)に恋をし、父を裏切って宝を盗み出し、二人でギリシャのコリントスへ逃げた。そこで二人が暮らしているうち、王クレオンが、自らの娘クレユーズとジャゾンを結婚させて王位を継がせようとし、ジャゾンも加担して邪魔になったメデを追放しようとした。裏切りに激怒したメデは、魔法を使って王と恋敵を殺し、ジャゾンとの間に生まれた息子二人も殺して復讐を果たし、竜の引く車に乗ってアテネに逃亡した。このメデに関するオペラが、17~18世紀絶対王政期のルイ14世時代に四本、戯曲が二本作られている。
オペラは16世紀の終わりにフィレンツェで誕生し、ルネサンス期の他の学術同様、古典ギリシャの復興をめざし、ギリシャ悲劇の再演を目的とした。17世紀にヨーロッパの宮廷を中心に拡がったオペラは、フランスでは芸術好きなルイ14世の保護を受け、王自身もオペラ制作に関わって独自の発展を遂げ、トラジェディ・リリックと呼ばれた。華やかな宮廷文化に取り入れられたオペラであるが、王殺し、子殺しを含む魔女メデイアの反逆の物語が、なぜ何度も舞台に上ったのか。
本発表では、四本のオペラのうち、1675年のリュリ作曲キノー台本『テゼ(テセウス)』、1696年のコラス作曲ルソー台本『ジャゾン、あるいは金羊毛』の二本を取り上げ、20年にわたるフランス絶対王政期を歴史的に見ながら、オペラ台本に現れる当時の女性観を見ていく。他の二作品、シャルパンティエの『メデ』およびサロモンの『メデとジャゾン』が、まさしくメデの子殺しを物語の中心に置いたのに対し、『テゼ』は、子殺し後アテネに逃げて、アテネ王と婚約したメデが、王の息子テゼに片思いし、恋敵の若い王女に敗れて宮殿を破壊して逃げる物語である。一方の『ジャゾン、あるいは金羊毛』は、メデの生地コルコスにやってきたジャゾンに恋したメデが、彼を追ってきたジャゾンの恋人レムノスの女王イプシピルを魔法で自殺においやり、ジャゾンを助けて金羊毛を手に入れさせる物語であり、子殺しの前と後の対の物語となっていることから、この二作品を分析対象として選んだ。
オペラを通じて庶民は宮廷のゴシップ情報を得ていたとも言われるが、オペラは宮廷の恋愛や政治を、芸術を通して見ることのできる資料でもある。芸術は現実社会と相互に影響し合うものであるが、特にオペラは恋愛劇の中でジェンダーやセクシャリアティを描き、当時の女性観を反映する。ここではオペラの中の女性の表象に着目し、近代黎明期のミソジニーに焦点をあてて分析する。

発表者名: 洲崎 圭子
所属:お茶の水女子大学院 博士後期課程
発表題目:子を産めないメキシコ人女性の<孤独>―ロサリオ・カステリャノス『真夜中の祈り』(1962)を巡って

メキシコの女性作家・詩人・戯曲家・外交官であったロサリオ・カステリャノス(1925~1974)は、第二波フェミニズムの萌芽期、ボーヴォワールをはじめ欧米の女性活動家たちの状況をリアルタイムにスペイン語圏に紹介したため、ラテンアメリカにおける第三世界フェミニズム批評の分野を切り開いたと言われる。カステリャノスはまた、先住民社会において女は、母親か売春婦としての機能すなわち肉体を提供すること以外存在の正当性を与えらず、子を産めない妻は死人扱いされていたと断言し、古来からメキシコには「不妊」に対して根強い偏見があったことを指摘した。報告者はこれまで、インディヘニスモ(先住民擁護主義)作家として評価の高いカステリャノスが、むしろ執筆活動の当初から女性に関わる問題に重きを置いていた点に着目し、いわゆる「マチスモ」的思想に支配されたメキシコにあって、女性の登場人物たちが閉塞的な社会で疎外感に苛まれる様子を分析してきたところである。
本報告では、メキシコ南部チアパスを舞台にしたカステリャノスの第二作目の長編小説『真夜中の祈り』(1962)から、不妊のため「心休まるときがない」先住民の女性主人公を取り上げ、愚弄と侮辱に苦しむなか、土地所有を巡って農園主たちと争う先住民村人から巫女と奉られ、現実と妄想の入り乱れる世界に翻弄されるさまを考察する。作品の背景となっているのは、独立後一世紀半を経てようやく大土地所有制度が終焉を告げた時期である。革命直後、先住民を「国民」として取り込むことでメキシコは、近代国家の創成に邁進したが、革命以降も存続していた大土地所有制度が本格的に解体されたのは1940年代以降であった。当時、「大統領」を国家の「父」と抱いた疑似家族性が謳われ、「大統領=父」の名のもとに「一家」が団結し、国民こぞっての新国家完成が急がれた。一家の基礎単位とは、親と子を中心とする「家族」であり、国民各々は「家族」を形成するよう求められた。
「家族」を成すことのない「不妊」の女のモチーフは、カステリャノスの第一小説においてすでに登場する。「産めない/産まない」ことについて、カステリャノスのエッセイ等における女性論も視野に入れつつ、当時の社会背景と絡め、一女性作家がもくろんだ国家政策に対する真の女性解放への希求、女性が抱える孤独感への不安、人種・階級の対立が交錯する様相を読み解く。

部会C

発表者名:嶺山 敦子
所属:関西学院大学大学院研究員
発表題目:廃娼運動と久布白落実の売春観―『婦人新報』における論稿から―

久布白落実(1882-1972)は明治・大正・昭和期を生きた婦人運動家として知られており、廃娼運動や性教育、また婦人参政権運動等に取り組んだ人物である。しかしながら、久布白の取り組んだ廃娼運動に焦点を当て、彼女の売春観をその論稿から詳細に分析した研究はあまりない。
久布白はアメリカに滞在していた1906年に日本人売春宿調査に立ち会う機会があり、そこで日本人「醜業婦」と出会い、「自分の意思でやっている」という彼女たちに衝撃を受けたことが廃娼運動に取り組む原点であったと後に述べている。その時点では旧来から「貞操」を守ってきたはずの日本女性の恥を濯がなければならないという思いと日本の国家が売春を公認する「公娼制度」への問題意識が存在していた。当初は「道徳問題」として捉える視点が大きかったと思われる。その後、日本に戻った久布白は日本キリスト教婦人矯風会(以下、矯風会)の機関誌『婦人新報』の廃娼運動の記事に刺激を受け、独自の廃娼論を『婦人新報』に投稿した。1916年には招かれて矯風会総幹事に就任し、廃娼運動の実践に取り組み始める。久布白は廃娼のための資金集めである「五銭袋運動」など実践的な運動に取り組みながら、『婦人新報』を中心とした女性雑誌等に廃娼や性の問題をテーマとした様々な論稿を残している。
先行研究においては、廃娼運動に取り組んだ久布白らキリスト者女性について、貧困や社会の視点の欠如、また、「醜業婦」という言葉を使用していたこと等から、売春女性への人権感覚の欠如などが指摘されてきた。確かに久布白ら中流女性と売春女性との間には階級的な隔たりが存在し、彼女たちを苦しめる記述も存在していた。また、男女間における性の二重規範には敏感で、男女両方が「貞操」を守ることで平等化を図ろうとしていたが、女性間における性の二重規範が存在していた。そのような側面は否定できないが、久布白の論稿を読み進めていくと、それだけでは捉えきれない視点もある。廃娼を「道徳問題」としてだけではなく、「人権問題」や「家族制度の問題」、「経済問題」として捉える視点もあり、そのようなことをテーマとした論稿もいくつか存在している。
本報告においては、上記のような視点を廃娼運動にどのように生かそうとしていったのか、その関係を探っていきたい。具体的には、『婦人新報』を中心として、久布白落実の「廃娼運動」に関する論稿を詳細に分析し、彼女の取り組んだ運動と根底にあった売春観との関係について考察を加えていく。
久布白は1935年に渡米し、翌36年にその研究の成果である「純潔日本の建設」を『婦人新報』誌上で発表するが、本報告においては、久布白の矯風会総幹事就任時からそれに至るまでの期間を分析対象とする。

発表者名:今井 小の実
所属:関西学院大学人間福祉学部
発表題目:なぜ、婦人方面委員は“Female Professional"として成立しなかったのか―大阪府の例を通して―

近年の研究では、イギリスをはじめとした福祉国家がジェンダー規範に基づいて構築されたことが明らかにされている。すなわち男性=一家の稼ぎ手モデルを標準家族として想定された福祉国家では、既婚女性は家族の世話(ケア)係であることを理由に、男性の被扶養者として社会保障・社会福祉政策のなかに位置づけられていったのであり、それが性別役割分業の固定化・維持に加担することになったのである。
報告者は、現在、“ケア"を介護、育児、世話、配慮など、本来の英語に近い広い概念でとらえ、それが女性の役割としてジェンダー化されていった過程を国際的な比較を通して検討していく研究に着手している。この過程を歴史的に解明していくことが、女性を社会的に固定化された“ケア"役割から解き放ち自由にする道筋を示す手がかりになると考えるからである。福祉国家の揺籃期の前提条件は社会事業(社会福祉の前段階)の成立だが、欧米では19世紀後半~20世紀初頭にかけ社会進出の道が限定されていた女性が後に社会事業と呼ばれる分野にその活路を選び、その発展に寄与したのである。社会事業の専門職としてソーシャルワークが確立したのはこのように女性の貢献によるところが大きく、それが“Female Professional"としての誕生につながったことが明らかにされつつある。つまり“ケア"を広い意味でとらえるなら、ソーシャルワークも“ケア"の専門職と言うことができ、それは“ケア"のジェンダー化と深く関わっている。
実は当時、日本の女性も社会事業に活路を求め、その舞台に方面委員(民生委員の前身)を選んだことがあるが実を結ばなかった。方面委員は、新しい救貧制度創設の気運が高まる昭和初期にはケースワーカーとして、ソーシャルワーカーに匹敵する存在として期待された(今井2010)。しかし圧倒的に男性が多く、日本ではケースワーカー(ソーシャルワーカー)は“Female Professional"としては成立しなかったのである。欧米と日本の女性がたどったこの状況の違いと背景を明らかにすることは、“ケア"のジェンダー化の過程を国際比較する研究にとって重要な課題となる。
今回の報告では、大阪府公文書館が所有していた方面委員関係の簿冊のなかから婦人の同制度にかかわる史料を抽出し、当時の大阪社会事業連盟における議論(『社会事業研究』)とともに、上記の問題意識から検討する。大阪を嚆矢として全国に広がっていった方面委員制度がその過程で、女性についてどのような役割を期待したのか?貧困者、困窮者に対する"ケア"(世話)を行なった方面委員が、女性の専門職としてジェンダー化されなかったのはなぜなのか、まずは豊富な先行研究と文献が残され、新たな一次史料が公にされた大阪から考察をはじめたい。
文献
今井小の実(2010)「社会事業の専門職化と方面委員制度-ストラスブルク制度をフィルターに-」元村智明編『日本の社会事業-社会と共同性をめぐって』社会福祉形成史研究会

発表者名:木村(横塚)裕子
所属:カリフォルニア大学バークレー校(博士号候補生)・ルーヴェン・カトリック大学(海外研究員)
発表題目: 20世紀初期の日米における母性主義的社会改革―米国の母親年金運動と日本の母子扶助法制定運動の比較考察―

20世紀初期、貧困母子への経済扶助の法制化を求める運動は、米国と日本においてそれぞれ、母子福祉改革に女性の経済的社会的地位向上の端緒を見出す女性活動家たちの間で幅広い支持を得た。1910年代の米国では、東部、中西部、西部を中心に多くの州で、配偶者に扶養されていない母親、主に寡婦への公的扶助を認める法律が成立した。一般に母親年金として知られるこの政策を米国各地で制度化する原動力となったのは、母子福祉推進に尽力していた女性改革者たちである。他方、日本の母子扶助法制定運動も、国家による母子保護の実現が女性運動の活路を開くと信じる女性たちを主な担い手として進められ、1937年の母子保護法成立に一定の成果をみた。
それ以前に、日米で展開されていた生活困窮母子の救済方針を巡る議論には大きな隔たりがあった。米国では、19世紀末以降の児童保護改革の結果、「貧困児童の家庭における保護」「母親による養育」の必要性が広く認識されるようになり、女性運動家の当座の目標は、この方針の実現に政府が責任を果たすよう働きかけることに絞られた。他方、日露戦争中から、1918年に始まる「母性保護論争」に至る時期の日本では、貧困層の母親の就労を前提とした救済政策が取られ、託児所の増設に力が注がれた。よって、女性運動家たちが母子扶助要求に向けて動き出した段階では、貧困母子政策の方向性に、日米間で大きな違いがみられた。いずれも、事後的な「救貧」に対する「防貧」の重要性を強調していたが、日本の政策が父親による扶養の有無に関わらず貧困家族に「独立自営」の達成を迫ったのに対し、米国では家庭における育児の質の向上が重視され、それによって次世代における貧困及び犯罪の発生を未然に防ぐことができるとの見解が浸透していたのである。
本報告では、こうした歴史的文脈における相違を踏まえて、日米の女性運動家たちが貧困母子への経済扶助の制度化という共通の目標を掲げた点に着目し、二国における母子扶助要求の展開を比較検討する。日米の母子扶助論者に共通する思想的基盤を表すキーワードとして、「母性主義」(maternalism)を用いる。先行研究において様々な意味で用いられているこの言葉を、ここでは、「母親による育児の社会的価値が公的に認められることが、女性の経済的社会的地位の向上につながるとする信条」と定義する。母性主義に基づく改革運動は、日米両国で、女性の権利拡張要求を巡って異なる立場、アプローチを取る女性たちから広い支持を集めた。本報告では、母性主義を標榜する日米の女性たちが、第一に、母子の生活困窮を生み出す社会状況に対していかなる批判を行っていたのか、第二に、母子の生活を守る手段として公的扶助を要求した理由を考察する。最後に、なぜ母性主義が、日米両国において、女性運動の基本方針を巡ってその他の点では対立した女性たちを統合する思想になりえたのか論じたい。

部会D

発表者名:渡部 周子
所属:千葉大学大学院人文社会科学研究科
発表題目:明治期女子教育における科学思想の受容―「生殖能力」の管理という視点から

本報告は、近代日本における女子教育制度の編成を、科学思想の受容という視点から考察することによって、ジェンダー秩序の構築のプロセスを解明することを意図するものである。
近代日本の女子教育において、「良妻賢母」主義が根幹となるイデオロギーであることは、従来指摘されているところである。近代国家の帝国主義的意図は、健全で頑強な人間をより多く再生産することで、労働力を増強し国力を強大化することである。家族の構成員のうち、男性は兵士あるいは労働力として貢献し、一方女性は子供を産み育て、労働による夫の疲労を回復させる「良妻賢母」として、間接的に国家に貢献することが求められた。本報告は、将来の良妻賢母として期待される「少女」期の教育に、科学思想がどのような影響を与えたのか考察する。
西洋列強による植民地化に抗し、日本が国民国家を形成するに際し、白人を優等、有色人種を劣等と位置づける進化論を乗り越えるために、「日本民族白人説」「混合民族論」等、様々な議論が展開されたことは良く知られている(例えば小熊英二氏による『単一民族神話の起源』1995年)。
進化論に基づく西洋の科学思想において、有色人種である日本人は劣等人種であり、知的能力、身体能力だけでなく、生殖能力も劣るとされた。そこで、医師たちは、「少女」期の心身を、人口の増加という視点から研究し、適切な教育方法について議論を重ねる。既に成人に達した女性の体質を変更するのは困難であり、発達途上にある「少女」に期待をかけたのである。本研究は医科学による女性身体の病理化と、教育による実践に焦点を当て、「少女」の心身が国民の再生産という目的のもと、近代国家によってどのように規定されたのかを明らかにすることを試みる。問題意識を共有する先行研究として、加藤千香子氏による「性差はどう語られてきたか―世紀転換期の日本社会を中心に」(『差異を生きる』2009年所収)を挙げることができる。本報告は、近代国家形成期である明治期の「少女」に問題を焦点化することで、新たな視点から考察を試みる。
分析対象とする主な資料は、『婦人衛生会雑誌』(1888年2月創刊。1893年4月より『婦人衛生雑誌』と改題。1926年12月終刊。)ならびに、有識者による女子教育論等である。まず、医科学はこの時期の女子をどのような存在だと捉えたのか明らかにする。次に、性差による教育格差が医科学の学説を根拠とすることで、正当化されるプロセスを教育論における科学思想の受容を通して分析する。以上のプロセスから、明治政府は西洋の科学思想を理論的支柱として、「民族の繁殖」という国家の富強の目的から女子教育制度を編成し、第二次性徴期の「少女」を管理する機能を学校に与えたことを明らかにすることを試みる。

発表者名:長沼 秀明
所属:明治大学
発表題目:「女性専門職」をめぐる大正期の日本社会-臨時教育会議の議論から-

本発表は、日本における「女性専門職」の誕生とその後の展開に関する研究の一部である。すなわち、「女性専門職」のうち医師および弁護士を研究対象として、それぞれの誕生とその後の展開過程を女子高等教育および女性の職業をめぐる当時の議論をふまえて再考する。
具体的には、大正6年(1917年)から同8年まで設けられた内閣直属の諮問機関である臨時教育会議における議論を検討し、議論の背景にあった、女性専門職をめぐる当時の日本社会の状況を考察する。
同会議は、第一次世界大戦後における日本の国際的地位をふまえ、国内外における社会・思想問題に対応することをめざし、大戦後の教育改革について調査・審議するために設置された。従来の高等教育会議などとは異なり、文部大臣の監督下を離れ、寺内正毅首相のもと、平田東助総裁以下、委員には関係各省庁の代表のみならず、枢密院、貴族院などの実力者を選び、学制改革を断行する態勢を整えたことが特徴である。会議に対する諮詢は、小学教育、高等普通教育、大学教育および専門教育、師範教育、視学制度、女子教育、実業教育、通俗教育、学位制度の9項目であった。これら諮詢項目のうち、本発表に大きく関連する項目は、大学教育および専門教育、女子教育である。
そこで、本発表では、臨時教育会議における大学教育および専門教育、女子教育についての議論を検討し、議論の背景にある当時の社会・経済状況を考察する。そして、これらに関する同会議の答申をふまえて実施された、大学令の制定をはじめとする教育制度の改革および実際の運用について、明治大学専門部女子部などの個別事例を含めて総合的に検討する。とくに、各委員の発言のうち、「女性専門職」に関わる主要な発言をとりあげ、その発言の意図および背景を考察する。
なお、本研究発表は、明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンターの共同研究プロジェクト「女性専門職の過去・現在・未来」の研究成果の一部であることを付記しておく。

発表者名: 山脇 野枝
所属:神戸女学院大学文学研究科
発表題目:神戸女学院第一期卒業生阿部マサについて

本調査は、神戸女学院(当時 神戸英和女学校)の第一期卒業生である阿部マサ(旧姓 伊藤マサ、1862/文久2年~1934/昭和9年)の足跡を追うものである。多くの初期神戸女学院卒業生たちがその半生について明らかにされているにも関わらず、阿部マサについてはこれまで多くが語られること、また調査の対象として扱われることはなかった。本調査は、神戸女学院に残る資料や同窓会の会報から彼女の足跡を辿るとともに、彼女の家族による手記なども参照しつつその半生を描き出すことを試みるものである。調査を通して、これまで何故彼女に焦点が当てられてこなかったのかという点を考えると同時に、マサに関する調査を行うことで明治初期における神戸英和女学校の生徒像をより具体的に把握することを目標としている。
秋田藩出身のマサは、幕末を過ごした父(伊藤 裕忠)を持つ。少女時代は父親の転居に伴い、日本各地を転々としている。生まれてすぐに生母と別れたマサにとって、父親は唯一の肉親であった。そんな境遇にあっても神戸英和女学校を第一期生として卒業した後、横浜共立女学校を第二期生として卒業している。女子教育の萌芽期であったにも関わらず、ミッションスクール2校で勉学を修めることができたことは、マサが非常に恵まれた環境で少女時代から思春期を過ごすことができたことを示している。また彼女の受けたこれらの教育は後年英語教員として働く上で、重要な糧となったことは間違いないだろう。当時の英和女学院生の進路とともにマサの職歴等についても報告する。
マサが他の卒業生たちと歩む道を異にしたという印象を与える出来事はいくつかあり、上記で述べたミッションスクールを2校も卒業している点に加え、聖職者の妻とならなかった点が上げられる。彼女が巡り会った生涯の伴侶は、同郷である秋田藩出身の阿部徳吉朗(1866/慶応2年~1907/明治40年)であった。彼は、東京大学農科大学(現在の東京大学農学部)第一期卒業生の官僚であった。結婚後、彼女は徳吉朗の移動に伴い日本各地を点々としている。1900(明治33 )年、徳吉朗は煙草専売公社に入り、1906(明治39)年天皇勅任官としてアメリカ・フランスに煙草の買い付け、専売制度の視察の為に日本を離れた。しかし、翌年1907(M40)年に腸チフスに罹患、志半ばにしてアメリカ・バージニア州リッチモンド市で帰らぬ人となった(享年42歳)。徳吉朗亡き後、マサは幼子を抱えつつも英語教師として家計を支えた。また一家が住んでいた家(早稲田南町7番地、後の漱石山房)を夏目漱石に借家として貸すことで収入を得ている。本発表では、マサが神戸英和女学校を卒業後、結婚に至るまでを中心に報告する。
参考文献(抜粋)
『神戸女学院百年史(総論・各論)』
『阿部徳吉郎さんを追いかけて』新実和也(1991)たばこ産業史資料第15号
「我が母の記」阿部たつを(1941)風鐸第2号(1)
「創成期女学院の信仰的基盤:第一回卒業生の生活史を中心として」大川公子、昭和58年度神戸女学院文学部社会学科卒業論文

部会E

発表者名:谷村 和枝
発表題目:花嫁斡旋という名の売買―フィリピンに始まり、韓国から中国とアジアを縦断した「国際結婚」ビジネスと花嫁たち―

自由論題における本発表の章立ては以下のようになっている。
はじめに
0章 前年度の当学会における自由論題発表要旨(前年からの継続研究として)
「斡旋されたセクシャリティと嫁役割―『ジャパゆきさん』と『農村花嫁(国際結婚)』に関する1980年代の言説・記述を分析する-」
1章 フィリピンに始まり、韓国そして中国へと迷走した「国際結婚」斡旋業
1節;「フィリピン花嫁斡旋」業、80年代の「盛ん」から1990年には「活動は違法」へと変化
2節;「国際結婚は」紹介業者間の提携で「韓国から始まった」が、「経済発展」で韓国花嫁の来日減少
3節;中国女性の「出国熱」と「日本で結婚できないから、外国で相手を見つける」日本男性のカップル
4節;「中国から締め出された国際結婚」斡旋業の次のターゲット「300万円のロシア人花嫁」は成立困難
2章 「花嫁」たちの打算と忍従、「両性の本質的平等」が適用されない結婚と多くの「破綻」
1節;「母国の家族を養ってくれる」ことを求める若いフィリピン女性の打算
2節;来日直後に中国人女性の「成田蒸発」が多発-「結婚は海外へ出る一番の近道」
3節;「両性の本質的平等」が適用されない結婚と多くの「破綻」
3章 ジェンダーとレイシズムが潜む「花嫁」売買が残した課題
おわりに
「深刻さを増す農山村の嫁不足」(読売新聞1987.9.14)という日本国内の需要により、行政関与の「国際結婚」が推進された。この行政関与を巧みに利用して、「花嫁を斡旋する国際結婚ビジネスが隆盛を極め」「この十年間で、フィリピンに始まり、韓国から中国と、花嫁を求めてアジアを縦断」(AERA1993.2.2;6頁)する事態となっていった。この10年強の期間(1985~1995年)、殊に90年代に重点を置き、新聞・雑誌メディアが掲載した記事を拠り所として、ジェンダーとレイシズムが潜む売買解明を本旨とし、研究発表をする。

発表者名: 北原 零未
所属: 大妻女子大学比較文化学部 (非常勤)・ YMCA健康福祉専門学校 (非常勤)
発表題目:フランスにおける事実婚(コンキュビナージュ)の歴史と現在―国家的容認と排除―

フランスを結婚制度や家族制度の側面から見ると、現在では一見日本よりも多様な家族の在り方を認めているかのようである。婚姻率は減少し、もはやコンキュビナージュ(内縁・事実婚)は特殊なカップル形態ではない。多様なカップル形態が、法的な問題は残しているにしても社会的には容認されていること、嫡出子と非嫡出子の法的差別がすでにないこと、子ども手当が厚いことなどから、フランスは近年EU諸国の中でも唯一出生率を回復させた国でもある。
こうしたことから、フランスでは少なくとも社会的には法的婚姻とコンキュビナージュの間には格差がないかのように見受けられる。しかしながら、実際にはフランス国家は法的婚姻のみを唯一あるべきカップル形態としており、婚姻とそれ以外のカップル形態の間には意図的な格差が設けられている。
現行法の基礎が女性蔑視的なナポレオン法典にあること、元はカトリック国であること、またフランス特有の「共和国の普遍主義原則」という拘束があることなどから、フランスは現在でも、実は国家のスタンスとしては、両親とその血を引いた子どもたちで成り立ち、かつ父親によって規律される家族を良しとしており、きわめて家族主義的なのである。
フランスは、コンキュビナージュの歴史が長く、必然的にヨーロッパの中でも早くからこの問題に取り組んだ国であるとされる。しかし、このことはコンキュビナージュに対する法的保護が厚いこと、あるいはコンキュビナージュを国家的に容認していることを意味するわけではない。あくまで国家の姿勢は、コンキュビナージュは法の枠外にあるカップル形態であって、禁止はしないが、一方保護も権利保障もしないというものである。したがって、現在でもコンキュビナージュに対する権利保障はきわめて限定的であり、基本的に交通事故という不可抗力の事態によって主たる稼ぎ手を失った場合の、生存パートナーの経済的保証に限られている。つまり、コンキュビナージュというカップル形態そのものを認めるというよりも、30年程以前にはまだ女性には労働権がなかったことから、たとえ籍が入っていなかったとしても、事実上の夫を失えば残された事実上の妻(およびその子ども)は基本的生存権を奪われかねないため、当事者の意思による関係の解消ではなく、不可抗力による場合はある程度の法的保護が必要であるという、人道的見地からの一種の女性政策であった。そして現在でもこの基本姿勢に変化はあまり見られない。
そこで、コンキュビナージュの誕生とその傾向の変遷をまとめた上で、時代によりどのような位置づけがなされてきたか、また現在どのような位置づけにあるのかをまとめたい。

部会F(パネル)

代表: 北原 恵
所属: 大阪大学
発表題目: 女性美術家と戦争
発表者:小勝 禮子・北原 恵
コメンテーター:加納 実紀代

【全体の概要】
アジア太平洋戦争期における日本の戦争画の研究は、美術史学会などアカデミズムの世界では1990年代半ば以降、ようやく本格化したと言える。研究はその後、満洲・台湾・朝鮮など対象地域の拡大、映画研究や戦争キモノなど研究対象の広がりとともに、戦争画の「再評価」の動きも同時に進行した。女性美術家については、美術制度(小勝禮子)や、女流美術家奉公隊(吉良智子)や、長谷川春子(小勝禮子・北原恵)などの研究があり、特に、女流美術家奉公隊を組織した長谷川春子については、これまで知られていなかった絵画(たとえば、《少婦國を防ぐ》1943年)などが発見され注目されるようになってきた。
今回のパネルでは、次の3点を中心に発表する。(1)15年戦争期の女性美術家の研究、特に従軍し多数の絵画や文章を残した長谷川春子ら戦争中活躍した女性画家の経験と作品を、聞き取り調査や文献資料から明らかにした研究成果を、ジェンダーの視点から見た表象分析などの最新の研究状況も含めて、整理する。(2)美術史研究の領域内にとどまらず、文学・映画など他の視覚領域における女性の表現活動についての研究成果、及び、海外における戦争画と女性アーティストの研究成果を踏まえて、領域横断的な視野から、今後の課題を明確に提示する。(海外での女性の描いた戦争画については、現在イギリスで開催中の「Women War Artists」展について、小勝禮子が発表の中で報告する。)(3)「戦争画」というジャンルの形成と問題点について考察する。
パネルについては、北原恵、小勝禮子の2名が発表するほか、加納実紀代がコメンテーターを務める予定である。

【発表1】「戦時下の日本の女性画家は何を描いたか―長谷川春子と赤松俊子(丸木
俊)を中心として」小勝禮子(栃木県立美術館)

報告者は、かつて「奔る女たち 女性画家の戦前・戦後 1930-1950年代」(栃木県立美術館、2001年)と題した展覧会で、戦後、歴史の忘却の中に埋もれてしまった、戦前から戦中期に活動した日本の女性画家(主に洋画家)の作品を集成してみた。その調査の中で問題点として浮かび上がったのは、戦前の女性画家をめぐる社会的制度であり、家父長制社会を背景にした教育制度である美術学校や画塾、発表システムである官展や美術団体における、著しいジェンダー不均衡の実態であった 。
そうした男性優位社会の中でも、当時の女性画家たちは、女性画家のみの美術団体を結成したり 、女性だけのグループ展を開催したりなどして 、団結して発表の場を確保し、自分たちの美術の研鑽を求める意欲的な活動をしていたこともまた、明らかになった。
それでは、彼女たちが画家として活動を始めた1930年代末~40年代の戦時下において、日本の女性画家はいかなる絵を描いていたのだろうか。本発表では、長く知られていなかった長谷川春子(1895-1967)による戦場の女性を描いた絵画が発見されたのを機に、特に長谷川春子と赤松俊子(丸木俊)(1912-2000)という2人の対照的な女性画家を中心に、彼女たちの戦中期の活動とその作品を紹介してみたい。三岸節子(1905-1999)、仲田菊代(好江)(1902-1995)や吉田ふじを(1887-1987)など数人の女性画家の同時期の作品も紹介する。
彼女たちの戦時中の行動や意識は、どのようにその絵画に結実しているのだろうか。それは同時代の男性画家による女性表象(絵画)や「戦争記録画」とは、どのような相違を見せるのだろうか。また、彼女たちの戦中の活動や作品は、その戦後の活動にはどのように引き継がれたのだろうか、または断絶したのだろうか。
戦時下の日本の女性画家たちは、銃後の女性労働を描き、少年兵の訓練を描くことで、戦争を遂行する「大日本帝国」の国策協力をしていた。その意味では彼女たちの戦時下の活動は、どの程度の影響力を持ちえたかは疑問の余地があるが、戦争の一端を担ったとみなされるものだろう。男性画家に劣る存在として低い社会的評価に甘んじていた女性画家は、戦時下に何もしなかったのではなく、彼女たちが出来うる範囲で戦争協力に従事したのであった。しかし発表者がそうした活動の詳細を紹介してきたのは、彼女たちの活動や作品を評価するためではなく、また逆にその行為を非難するためでもない。なぜ女性たちがそうした戦争協力にすすんで参加して行ったか、あるいは参加せざるを得なかったかを解明し、彼女たちの描いた絵画・挿絵が当時果たした役割や伝えた意味を読み解く意図からである。
なお、2011年4月から2012年1月まで、イギリスの帝国戦争博物館で開催中の企画展「女性戦争美術家Women War Artists」を参照に、イギリスにおける戦時中の女性画家の活動や作品と日本の女性画家を比較対照することも、日英の社会・歴史背景の違いを考察しつつ試みてみることとする。

【発表2】「戦時下の長谷川春子研究から見えるもの―ジェンダーと「戦争画」」北原恵(大阪大学)

本発表では、アジア・太平洋戦争期に女性美術家の国策団体を結成するなど活躍した長谷川春子(1895-1967)の活動に焦点を合わせて、戦争画を描いた女性美術家の研究が、従来の「戦争画」研究に何をもたらすのか、考察する。
戦時下の女性美術家については、すでに吉良智子や小勝禮子らの先行研究があり、長谷川春子についても最近、《少婦國を防ぐ》(1943年)など新たな絵画が発見され注目されるようになってきたが、今回は、昨年、報告者が偶然発見した1939年のハノイ風景を描いた長谷川春子の油彩画も含めて、1931年から1945年までの長谷川春子の足跡を、彼女の満洲・蒙古・南支・仏印などへの「移動」に注目しながら紹介する。
1895年、東京日本橋で7人兄弟の末っ子として生まれた長谷川春子は、高等女学校卒業後、絵を習い始め(日本画を鏑木清方に、その後洋画を梅原隆三郎に師事)、実姉・長谷川時雨の主宰する文芸雑誌『女人芸術』の美術部門担当の経験や、フランスでの絵の修業を経て、次第に日本のジャーナリズムでも認められるようになった。国画会や朱葉会に出品する傍ら、女性画家だけのグループ「七彩会」(1936年)を結成、アジア太平洋戦争末期には「女流美術家奉公隊」を結成し自ら委員長となり、植民地や戦地での従軍記など単著を次々と出版した(『満洲国』1935年:『北支蒙彊戦線』1939年:『南の処女地』1940年:『東亜あちらこちら』1943年)。
その一方、長谷川春子は、1932年(推定)に満蒙を訪問し、最前線の関東軍の戦闘の様子をつぶさに記録するなど、軍部や戦争との関わりは早い。日中戦争が始まると、長谷川春子は1937年10月から翌年1月まで大阪毎日新聞と『改造』の特別通信員として蒙古や満洲に派遣され、1939年には、陸軍省の派遣で中国南部と仏印に滞在した。日本人画家の仏印での活躍がメディアで華やかに報道されるのは、日本軍の仏印進駐後、1941年以降である。伊原宇三郎や藤田嗣治らが現地を訪問して制作し、日本美術と仏印との交流がメディアで伝えられるようになるが、1939年当時、日本人画家が仏印を訪れることはあまりなかった。
昨年発見した春子の絵画(36×32cm)には、異国風のオレンジ色の門と、その向こうに生い茂る木立が描かれている。柵越しに見える街路にはバス停も見え、敷地内から描かれた絵であることがわかる。春子はこの仏印訪問について、「女ひとり仏印に行く」(『南の処女地』1940年12月)で、まだ現地に残っている日本人女性や仏印女性の風俗などを挿絵とともに書いているが、同書には、この絵画とそっくりな構図のスケッチと、そのスケッチを描いた時の文章も残っており、解読する大きな手掛かりとなる。
このように戦時期15年間の長谷川春子の足跡をたどると、第一に気がつくのは、ジェンダー規範の社会的制約を受けながらも、規範に抗い「自由奔放」にも見える行動領域の広さと横断性である。だが、同時に規範への抵抗やその行動力は、軍部への協力に結びつくものでもあった。第二に、従来の戦争画の研究は、ともすれば東京で開催された展覧会や活動を中心とした戦争美術研究に終始することが多かったが、ものと人の移動を丹念に追い、その「移動」の意味を歴史的文脈のなかに位置づけて考察することが必要である。そのためには、美術史だけではなく、女性史、文学研究、植民地研究、歴史学などとの領域横断的な視野と資料の調査が求められる。第三に、「戦争画」というジャンルを固定した絵画群ではなく、社会的に構築された流動的な言説として捉えることによって、従来の研究における「戦争画」概念の再考が必要である。戦争画研究では、従軍した女性がいたことも、その具体的な足跡もこれまで一部の研究を除けばほとんど知られてこなかった。それらを明らかにすることは、既存の女性美術家像だけでなく、戦争画と戦争のイメージをも変えることに繋がるだろう。

ジェンダー史学会大会シンポジウム
2011年12月10日(土)
報告要旨(2011/08/26版)

「小経営体」のジェンダー分析
―日本における歴史的展開とその方向性をめぐってー

趣旨説明  舘 かおる(お茶の水女子大学) 

これまでの歴史学研究は、日本経済の近代化・資本主義化の研究が多数を占めて来た。それは「小経営体」の研究が、歴史的展開の分析に積極的には関連しない、伝統的な形態と捉えられてきたからと言えよう。女性史、ジェンダー史研究においても、近代家族、専業主婦、雇用女性労働者の研究が中心であった研究状況に比して、「小経営体」の研究はさほど行われず、まさしくその意味で、歴史学にとっても、ジェンダー研究にとっても、「小経営体」の研究は、稀少な研究分野となっている。
今回のシンポジウムでは、「小経営体」を取り上げるにあたり、各時代の対象領域を限定した、一つの理論解釈に規定されることなく、近世から近代においての「小農経営」と都市の非農業部門での「小経営」の生産様式の成立と展開、そして現代における「小経営体」の在り方の変容など、日本の近代化に「小経営体」の歴史的展開がどのように関わってきたか、今後の方向性も含め、考察することを目的とした。
また、今回の東日本大震災による地震、津波、原発による被災は、東北地方における生業に大きな痛手を与えた。工場労働や漁業の領域に関わる復興については、比較的議論されることは多いが、酪農等を含む農業及び非農家「小経営体」については、その実態解明や今後の展望が見えずにいる。このような日本の状況の中、ジェンダー史学会では、近世から現代までのスパンで、地方社会の「小経営体」に焦点をあて、その歴史的背景と展開過程について、ジェンダー視点から検証することを試みる。  

日本近世農村の「小経営体」とジェンダー―分業・心性・領域を中心に―
長野 ひろ子(中央大学)

本報告では、日本近世農村における「小経営体」としての「家」経営体を取り上げ、ジェンダーの視点から分析する。まず、3つに類型化した近世の「家」経営体に関し、それぞれのジェンダー分業の実態を詳らかにすることで、分業のみならず所有・相続・労働におけるジェンダーの構造的特質、差異化の諸相を明らかにしていく。そのことをふまえ、「家」経営体成員の心性・意識の形成のありようを考察し、ジェンダー規範・道徳にも言及する。さらに、ジェンダー領域、とくに境界周辺をめぐる問題を取り上げ、女性の主体性が「家」経営体においてどのように発揮されるのか、幕藩制国家や村落共同体など外部要因との相互連関性を視野に入れながら検討を加えていく。最後に、維新変革によって近世的ジェンダー、とくに「家」経営体のジェンダーがどう変容していくのか見通しを述べたい。

近代日本における「小経営」モデルとその射程―女性労働の配分戦略を中心として―
谷本 雅之(東京大学)

 近代日本の女性の過半は、農村はもとより都市においても、「小経営」世帯に含まれていた。それら「小経営」世帯の大きな特徴は、世帯主の営む事業への生産労働と、徒弟を含む世帯員の再生産を図る家事労働の双方が、家族員たる女性(およびその代替としての家事使用人)によって組み合わされ、担われていたことである。この小経営世帯の所得水準は、場合によっては新中間層の単一稼ぎ手世帯に並び、就業条件を加味すれば、多就業労働者世帯を上回ることが多かった。このことは、近代日本における小経営世帯が、固有の生成・存続の論理を備える、就業形態における一つのモデルたりえていたことを示唆している。本報告は、これらの論点をデータに基づいて明示することを主たる内容としつつ、その作業を通じて、近・現代日本における女性に対する社会的・経済的な規制の基盤が、「小経営」世帯の歴史的特質に根ざしていた可能性についても論じたい。

戦後日本農村の変転とジェンダー―家族農業経営と地域のレベルから―
秋津 元輝(京都大学)

戦後日本の農業経営・農村社会を性別役割分業という点から振り返ると、農村民主化政策、農業機械化・化学化にともなう農作業体系の変化、それと連動した農外就業の増大、さらに近年では農村女性起業の活発化などが変動要因として指摘できる。また農村のジェンダーは、農家経営体のみならず、それを超えた地域コミュニティとの関連のなかで考えることも重要である。本報告では、経営体内については、戦後の農家の生活時間から機械化・兼業化による役割分担の変化を明らかにするとともに、近年の先進農家における役割変化について家族経営協定も参考にしつつ検討する。経営体を超えた社会との関連については、農村女性起業や女性農業者のネットワークをとりあげ、男性とは異なる地域への関心の有り様が農村社会に及ぼす影響について考察する。さらに、外部からの働きかけとして、農村女性起業の発端でもある戦後の生活改善普及事業についても言及したい。

コメンテーター
大門 正克(横浜国立大学)/三成 美保(摂南大学)
司 会
佐藤 円(大妻女子大学)/舘 かおる(お茶の水女子大学)

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