第7回ジェンダー史学会大会プログラム

日時 12月12日(日)
場所 お茶の水女子大学共通講義棟1号館・2号館

受付開始(2号館1Fロビー) 9:30~
自由論題発表 10:00~12:00

部会A:日本前近代/近代女性史 1号館205号室 <>br 司会および進行 小野沢あかね

10:00~10:40 人見佐知子「公娼制度の時代的特質から『遊郭』の訳語を考える -licensed brothel quarterからlicensed prostitution quarterへ―」
10:40~11:20 磯部香「植民地統治初期における『台湾』受容をめぐる対女性言説」
部会B:第二次世界大戦以降の歴史および表象研究 1号館204号室
司会および進行 千葉慶

10:00~10:40 平塚博子「第二次世界大戦下のアメリカにおけるメディアとジェンダー表象 ―『ライフ』誌が描いた女性たち」

10:40~11:20 上村陽子「改革・開放以降の中国における日本製家電及びその広告の『流通』と『受容』をめぐって ―家電広告におけるジェンダー表象とそのポリティクスに関する考察―」
11:20~12:00 谷村和枝「斡旋されたセクシュアリティと嫁役割 ―じゃぱゆきさんと農村花嫁(国際結婚)に関する1980年代の言説・記述を分析する―」

部会C:ジェンダー史およびその手法をめぐって 1号館203号室
司会および進行 松原宏之

10:00~10:40 川島慶子「『科学』を排除しないジェンダー史教育の可能性 -マリー・キュリーを例として」

10:40~11:20 伊藤繭子「フェミニスト研究方法としてのオーラルヒストリー:問題点及びその対策」
11:20~12:00 内田雅克「ベースボールとジェンダー -占領下日本の『少年』と『男性性』」

パネル

パネル1:第二次世界大戦下、表象にみるジェンダー秩序の揺らぎと再編 -日本・ドイツ・イギリス
1号館301号室加納実紀代(代表)敬和学園大学「戦争とジェンダー表象」研究会

パネル2:ことば・文字・女の解放
1号館302号室湯山トミ子(代表)
パネル3:衣生活の変化と帝国・植民地
1号館303号室井上和枝(代表)

○ 総会 13:00~14:00 会場:1号館201号室

〔議事次第〕
1 議長選出
2 代表理事挨拶
3 2010年度活動報告について
編集・販売
企画・大会
国際
会務・広報・渉外
4 2010年度会計報告について
5 2011年度活動計画(案)について
6 2011年度予算(案)について
7 その他

○ シンポジウム: 植民地支配とジェンダー―『慣習法』と『近代法』の相克
14:15~17:15 会場:2号館201号室
司会/趣旨説明 粟屋利江・井上和枝
野木香里「朝鮮における婚姻の『慣習』と植民地支配 ―1908~1923年を中心に―」
栗原純「日本統治下台湾における既婚女性の姓について」
富永智津子「植民地政策と婚姻法―アフリカ・ザンジバル保護領(英領)の事例から」
コメンテーター 藤永壮

○茶話会 17:30~18:30 会場:1号館203号室

部会A

発表者名:人見佐知子
発表題目:公娼制度の時代的特質から「遊廓」の訳語を考える ―licensed brothel quarter から licensed prostitution quarter へ―

周知のとおり、「遊廓」には定まった訳語(英語)はない。「遊女」も同様である。多くの場合、Yukaku、Yujoと表記されるか、それに近い言葉、遊廓ならば、red-light-district、prostitution area、licensed prostitution quarterなど、遊女ならば、prostitute、courtesanなどが使用される。
 しかし、そのどれもが「遊廓」「遊女」に近い英語表記がさしあたり選択されたもので、遊廓や遊女をその歴史的・社会的背景も含めて伝えるためには、現時点では原語をそのまま用いることがもっともよしとされているようである。しかし、今後比較史研究を可能にするためにも、日本の公娼制度の歴史的特質を反映した英訳を吟味することは必要な作業ではないかと考える。本報告では、近年の日本における遊廓や売買春の歴史的研究の成果を反映した遊廓の訳語を提示することで、ひいては公娼制度の時代的特質を捉え返すための試論としたい。
 応募者はこれまで、近世・近代移行期の遊廓社会と公娼制度の特質の変容に関心をおいて研究を積み重ねてきた。具体的には、①公権力による公認と②売春営業の特定の地域への限定という日本固有の「遊廓」について、近世・近代移行期における①②の変化から公娼制度の基盤となるそれぞれの社会の特徴を明らかにするという作業を行ってきた。その結果、近世と近代それぞれの公娼制度の特徴をおおよそ以下の様に整理してきた(拙稿「明治初年の大阪における遊所統制と『再編公娼制』」『ヒストリア』2009年)。
 近世の公娼制度については、近年の都市社会史研究や身分的周縁についての研究で提起された、遊女身分を根本において規定する遊女屋という問題をふまえながら(塚田孝「吉原―遊女をめぐる人々」高橋康夫・吉田伸之編『日本都市史入門Ⅲ』東京大学出版会、1990年、のち増補のうえ同著『身分制社会と市民社会』柏書房、1992年)、近世の公娼制度が規定する遊廓は、幕府・藩(公権力)によって公認された遊女屋営業の場所であるとした。
 それに対して、維新後の公娼制度政策は、「芸娼妓解放令」を決定的な要因としてその性格を大きく変化させる。すなわち、近代国家は「芸娼妓解放令」によって人身拘束的な社会関係にもとづく営業形態を解消し、遊女屋営業を芸娼妓稼業と貸座敷稼業(旧遊女屋)に分離し、芸娼妓を営業主体(「自売」)として法的に認知した。
「芸娼妓解放令」を契機とする近代公娼制度の提起した「自売」の論理は、のちの自由意志にもとづく自由廃業運動の論拠とされたのであり、現実を拘束し、実体を改変する側面をもっていた。
この点は従来の近代公娼制度研究の理解と大きく異なる。第一は、芸娼妓解放令は、娼妓を解放するという画期的な法令であったにもかかわらず、前借制と年季契約制による人身拘束の存続を特徴とする前近代性を払拭することが出来なかったとし、近世公娼制度との連続性を重視する見方である。第二は、近代公娼制度の国民国家の売買春統制としての普遍的性格(規制主義)に注目し、「自売」は近代国民国家が構築したフィクションにすぎないという見方である。しかし、応募者は、上述の理由から、「芸娼妓解放令」を契機として、貸座敷(旧遊女屋)と遊女は対等の営業主体であると規定されたことの意味は、近代公娼制度の歴史的特質を理解するために看過してはならないと考える。
 以上の研究の成果を反映するならば、近世公娼制度下の遊廓は、licensed brothel quarterであり、近代公娼制度下の遊廓は、licensed prostitution quarterと表記できるのではないか。

発表者名:磯部香
発表題目:植民地統治初期における「台湾」受容をめぐる対女性言説

<問題関心・目的>
 台湾は、日清戦争終結を迎えた明治28年に下関条約締結によって、日本の初めての植民地となった。終戦を迎える昭和20年までの約50年間、台湾は植民地として日本の支配下に置かれることとなる。日本の統治以降、日本(語)の教育システムが導入され、台湾人の階層が秩序化・明確化されることにより、台湾人女性のなかに1920年代前後「新女性」と呼ばれる日本教育を受けたエリート女性が誕生する。彼女らは、家庭において良妻賢母であることを期待され、近代的女性像、家族像を再生産する役割を主体的に担う者もいた(洪2001)。本研究は、台湾の「新女性」のモデルとなったであろう、家庭で良妻賢母を体現できる新中間層以上の日本女性たちが主な読者層であった『女鑑』(明治24-42年)を第一ステップとして、植民地統治初期の台湾、特に同性である台湾女性の言説をどのように切り取ったか、さらに台湾言説を通して日本女性にどのような役割を付与・強化していったのかを考える。
<調査方法>
 期間は、『女鑑』が創刊した明治24年から終刊したと予想される明治42年の約18年とした。対象は『女鑑』合計356冊の全ての記事である。方法は『女鑑』における「台湾」言説を抽出し、台湾を『女鑑』はどのように捉えていたのかを分析する。
 <結果>
 明治28年から明治41年まで、主に、台湾の習俗、日本教育の進捗状況、台湾で病死した故北白川親王を奉る台湾神社設立、祭典、天皇皇后による台湾での災害への御救恤、台湾女性の性質や習俗問題(纏足や新婦仔)、台湾女性の内地留学などに関する記事を抽出することができた。ここで注目すべきは2点ある。1点目は、台湾女性と日本女性の類似性と差異である。台湾女性は無教育・無教養であるが、その性質において日本女性と類似する孝や徳、貞操堅固を持ち合わせているという、差異性を秘めた「同化」のレトリックを使用していることである (『女鑑』第13年20号など)。さらに2点目は、無秩序・無教育な新たな版図「帝国の南門」での日本女性への新たな役割付与である。男性の補助者としての役割に収斂されながらも、近代的知を習得した日本女性たちに台湾への「移住、教育、衛生、産業」等の使命を付加することによって、『女鑑』自らが提唱した良妻賢母の概念を拡充、或いははみ出す結果となった(『女鑑』第99号など)。台湾割譲直後における『女鑑』は、家庭以外での役割を内地女性に期待するという新たな役割を創出するという二重基準を内包していた。
 以上が『女鑑』から抽出された「台湾」言説である。内地においてこのような言説がある程度一般化できるのか、また上記のような言説がこの時代の日本においてどのような意味を持つのかを他資料より補完する予定である。
参考文献
洪郁如2001『近代台湾女性史――日本の植民地統治と「新女性」の誕生――』勁草書房。

部会B

発表者名:平塚博子
発表題目:第二次世界大戦下のアメリカにおけるメディアとジェンダー表象
―『ライフ』誌が描いた女性たち

日本による真珠湾攻撃によって、外交操作で戦闘を回避していたアメリカは、第二次世界大戦への本格的な参戦へと踏み切る。武力、経済力、メディアのすべてを用いて戦う総力戦となった第2次世界大戦を戦うにあたり、アメリカは男女を問わず国民の大規模な動員を強いられることとなる。女性たちは軍人の妻や母として家庭を守るだけでなく、軍需生産はもちろん、場合によっては軍の要員としても動員され労働力として戦時下のアメリカ社会の中で大きな役割を果たすこととなる。
様々なかたちで戦時体制に組み込まれる女性たちを、『ライフ』誌をはじめアメリカのメディアは繰り返し取り上げた。戦時下のアメリカのメディアはどのように捉え、伝えていたのであろうか。また、メディアは戦時下の女性の役割や「女らしさ」をどのようなものだと定義していたのであろうか。アメリカのメディアによる女性表象を分析することによって、第二次世界大戦がアメリカ社会における既存のジェンダー規範や「女らしさ」の概念にどのような変化をもたらしたのか明らかにすることが本発表の目的である。
第二次世界大戦中、女性たちは「母性」や「愛国心」などを強調しながらアメリカの様々なメディアに登場するが、そこに登場する女性たちは戦況の変化によって変化し、しばしば矛盾に満ちている。女性たちの表象にみられる変化や矛盾は、まさに戦争による女性の社会進出とそれによって生じたジェンダー秩序の揺らぎに対する体制側の危機感、女性の役割や「女らしさ」をめぐる価値観の変化やその揺り戻しなど、戦時のアメリカ社会が抱えるジェンダーにまつわる複雑な事情を反映しているといえる。さらに、この時期アメリカは、戦後本格化する公民権運動が胎動している時期でもあり、戦時下の女性表象はアメリカ社会における人種とジェンダーの複雑な関係も同時に露呈している。
本報告では、戦前から戦後復興期にかけて、アメリカの思想、政治、外交を内外に伝え、アメリカの世論の形成に大きな影響及ぼした『ライフ』誌を取り上げ、その戦時下における女性表象を分析する。他のメディア同様、『ライフ』誌も戦時中、軍人、従軍看護婦、工場労働者、事務職員、ボランテイア、軍人の妻や母として様々な形で戦争を支える女性たちを取り上げている。『ライフ』誌の中で、戦時下の女性たちがどのように表象され、戦況の変化によってどのようにそれが変化するのかを考察することによって、第二次世界大戦がアメリカの女性の地位、またはジェンダー配置にどのような影響を与えたのか、人種という観点も織まぜながらその意義を探ってみたい。

発表者名:上村陽子
発表題目:改革・開放以降の中国における日本製家電広告のジェンダー表象 
―「愛妻」をめぐる議論を中心に―

中国では、1978年の改革開放政策により市場経済化が始まり、同時に広告メディアが復活・発展した。それによって、新たな消費文化が形成され、商品だけでなくそこに付随した情報やイメージもまた大量に流通・消費されていくようになる。報告者はこれまで主に1980年代の中国において近代化の指標として輸入された日本製家電の製造や流通といった資本の動きと、家電広告における近代化イメージの形成過程及びそこに利用されたジェンダー表象との関係を考察してきた。
本発表では、これまで分析してきたジェンダー表象、特に日本製家電広告において形成された主婦イメージが異なる社会的、文化的文脈である中国社会ではどのように受容されたかを検証する。具体的には1980年代後半、松下電器(現・パナソニック)の全自動洗濯機「愛妻号」の発売を契機とし、90年代から登場し始めた「愛妻」をめぐるさまざまな言説に着眼する。そして、①中国政府の関連機構(中国婦女連)、②家電製造・販売者、③広告制作者、④研究者(広告及びジェンダー関係)らがどのような見解を示していたかを考察する。
例えば、中国の家電メーカー小天鵝(江蘇省無錫市)は1988年に松下電器と技術提携を結び、1989年4月下旬に「愛妻型」全自動洗濯機を販売した。これは松下電器が1983年に販売した「愛妻号」の技術を輸入したものである。小天鵝「愛妻型」は松下「愛妻号」と外観や性能が同じでありながら価格では日本製造のものより安いため非常によく売れたが、この「愛妻型」という名称は単なる商品名ではなく、消費者、特に男性消費者の購買欲を誘う働きもあった。小天鵝グループ前副総裁の徐源は、新婚の男性が妻のためにこの洗濯機を購入したが、その際「愛妻」という名称をとても気に入っていたというエピソードを語っている。それまで機能性が重視された製品に「愛妻」という名を与えることは単なる商品名にとどまらず、それ自体が消費者(特に男性消費者)に新たな欲望と新たな消費行動を創造する機能を果たし得た。
 商品としての「愛妻型」洗濯機が中国市場を流通する一方、社会的文化的な観点ではその名称は批判的に捉えられた。松下電器が「愛妻号」と名付けたのは1980年代の日本社会を背景として「家庭で働く主婦の労働力軽減と地位の向上を目指す」という意識に基づいていた。しかし、社会的文脈の異なる中国では必ずしもそのようには解釈されず、主に研究者や政府側からは「愛妻」を謳う広告はむしろ封建的な考えの表れだという指摘があった。また、中国婦女報(中華全国婦女連合会発行)において1992年3月から9月まで「広告中的女性形象大家談(広告における女性イメージについて論じよう)」(全19回)が行われたが、ここでも同様の批判が見られた。
 このように本発表では「愛妻」をめぐって立場の異なるそれぞれの反応に焦点を当てる。と同時に、中国におけるジェンダー視座による広告批判を80年代から通時的に検証し、その内容の変化を捉え、本発表で扱う「愛妻」批判がどのように位置づけられるのかも検証する。

発表者名:谷村和枝
発表題目:斡旋された嫁役割とセクシャリティ ―「農村花嫁(国際結婚)」と「じゃぱゆきさん」に関する1980年代の言説・記述を分析する―

発表者は2001年より民間シェルター(NGO)の活動に参加している。2000年代の前半にシェルターへ入所し、シェルター内勉強会に参加した中学生の3事例を発表者は独立行政法人福祉医療機構 子育て支援基金助成事業に報告した。この3人は、入所時点で、13歳、14歳、14歳であった。3人は皆日本国籍を有し、外国籍の母親が日本人の夫(彼・彼女らの父親)からの暴力(DV)を受け、その母と共にシェルターへ入所する寸前まで、滞ることなく中学校に通学していた(『「シェルター利用者に係る児童虐待に関する調査研究」報告書 平成18年度』62頁)。 
この3中学生の母親達は、発表者が出会ったとき、30歳代から40歳代前半の年齢であった。彼女達は、1980年代に日本に入国をし、その入国前後に日本人男性と国際結婚をし、子どもたちを生み、育てながら、日本国内に定住をしていたのであり、現在も定住しているのである。
これらの女性達(同様の経緯を持つ事例は上記以外にもあった)は、「農村の嫁不足解消のため」の施策に則った「農村花嫁」(若しくは国際結婚)として業者に斡旋され、あるいは興行ビザを持つ「じゃぱゆきさん」として、入国をした。前者はセクシャリティ(夫婦間性行為)と嫁役割(農業の傍ら、子を産み、老親の世話をする役割)が斡旋の対象であり、後者はセクシャリティ(広義の性行為)が斡旋の対象であった。
日本は1985年、その六条であらゆる形態の女性の売買の禁止と女性の売春からの搾取禁止措置が義務付けられた「女性差別撤廃条約」(1979年に国際連合で採択)の締約国になった。しかし、締約後も、花嫁を受入れた日本人花婿たち、及び、「じゃぱゆきさん」を受入れた「国内ディーラー」は、入国に掛った費用―即ち斡旋料金―を支払っていた。前者は行政介入のケースで「170万円」から「200万円」(『アジアから来た出稼ぎ労働者達』内海愛子・松井やより 1988年明石書店 196・201頁)が、後者は斡旋料金として「150万円以上200万円以下」(『人身売買をなくすために 受け入れ大国日本の課題』吉田洋子監修・JNATIP編2004年明石書店42頁)が、支払われていたのである。
前者と後者の区別は、1980年代の行政担当者に於いては不明確であった。「『嫁』も『売春婦』も、両方が必要で、それを上手く使い分ける」ことが「発想の根底」にあった。「国際結婚にふみ切る決心のつかない男は、一生結婚できないだろう。そういう男は、街に出かけて“じゃぱゆきさん”でも相手にすればいい」(『アジアからきた出稼ぎ労働者達』内海愛子・松井やより、1988年明石書店、199頁)という行政担当者の発言からも理解できる。そして、両者の折衷的な違法入国・在留斡旋も報道された。「観光ビザで入国、東京・新宿や横浜市の繁華街などで働いている台湾人女性のじゃぱゆきさん約百人を、日本人男性と偽装結婚させ、国内に不法残留させていた大がかりな国際結婚偽装組織」が「摘発され」、「一件あたり数十万円の斡旋料」(読売新聞1986年7月19日「偽装結婚の黒幕逮捕 じゃぱゆきさん100人残留」)の存在が報道されたのである。
では、1980年代に高い頻度で記事の掲載をした新聞・雑誌メディアはこの前者・後者の何を明確に区別して報道したのか。何が不明確なままに報道されたのか。そして結局、何が課題として残されたのか。メディアに現れた言説・記述の分析を拠り所として、歴史的な背景も踏まえながら、これらを解き明かすことを本旨とし、本研究は発表を進めていく。

部会C

発表者名:川島慶子
発表題目:「科学」を排除しないジェンダー史教育の可能性-マリー・キュリーを例として

いかにしてジェンダー史を学生や生徒、あるいは一般に向けて教育・啓蒙するのか、という課題は、ジェンダー史研究者にとって、研究活動に負けず劣らぬ重要な課題である。なぜなら、ジェンダー史は他の歴史分野以上に、研究者自身が生きている、現在および未来の社会状況の改善(もちろんジェンダーの視点から)を念頭においているからである。これが、タコつぼ専門化になっても、とりあえずの批判を受けることのない類の歴史分野とジェンダー史との大きな違いである。
 ところが一般的に見て、ジェンダー史には盲点がある。それは科学について語られることがほとんどないことである。この現象そのものがジェンダー研究の対象でもある。つまり、これは女性が長らく「科学に向かない性」として有形無形にその学問から遠ざけられてきたことの帰結だからである。しかもまれに女性と科学の話題が出るにしても、圧倒的に医学(主に産婦人科、小児科関係)・生物学系の分野に偏っており、物理化学系の分野にはほとんど言及されない。科学と関係する歴史以外のジェンダー研究の状況を見ても、同様の傾向が見うけられる。
 ところがこうした現象は、じつは男性の行動様式について考える際にも大きな誤解の原因となっている。というのも、科学の中でも特に物理学をさける女性が多いことから、逆に「男性は物理学が得意」という「まちがった」概念に、多くの女性や男性がとらわれているからである。
大学における男子学生の学部別人数の統計を見ると、理科系の男子は、じつは文化系の男子より少ない。物理学系は、さらに少ない。大学に進学しない男子を含めると、この傾向はますます拡大する。要するに、男女を問わず「物理学は苦手」な者が多数なのである。これは小学校で、性別に関係なく、子どもが真っ先につまずく科目として、物理学の基礎となる算数(数学)が挙げられることを考えれば、当然の結論である。しかるに、社会通念としての「男は理系、女は文系」というジェンダーバイアスのために、一般には見過ごされがちな「事実」であり、数学や物理学の苦手な男性に、いらざるプレッシャーをかけている原因でもある。
 こうしたことからも、ジェンダー史と物理学の関係を考察し、それについて教育・啓蒙することはきわめて重要である。本発表では、誰もが知っている女性物理学者にして二度のノーベル賞受賞者(物理学賞、化学賞)マリー・キュリーを取り上げる。この著名な女性とその時代におけるジェンダーと科学の関係の提示を突破口として、科学を排除しない新しいジェンダー史教育の可能性を探るものである。
参考文献:川島慶子『マリー・キュリーの挑戦―科学・ジェンダー・戦争―』(トランスビュー、2010).

発表者名:伊藤繭子
発表題目:フェミニスト研究方法としてのオーラルヒストリー:問題点及びその対策

本報告は、メルボルンに住む国際結婚をしている日本人移民女性17人に対し行った、オーラルヒストリーを用いた聞き取り調査を基にしている。オーラルヒストリーは、研究対象者の「語り」にフォーカスをあて、彼ら・彼女ら自身の言葉で語られる個人史及び個人的歴史を調査対象とする点で他の聞き取り調査方法とは異なる特色を持っている。とりわけ、社会の中で抑圧されている層についての研究に有効な手法として、フェミニスト研究者たちに用いられ、また議論されてきた。今までのそのような議論の中では、研究対象者への独特な向き合い方ゆえにユニークな研究データの収集が期待できる一方、研究者と研究対象者の関係性がデータを大きく左右する等の問題点も指摘されている。
 オーラルヒストリーの問題点について実感したのは、ある研究対象者からインタビュー中に言われた一言がきっかけだった。研究のテーマである移民や国際結婚とは関係がない個人的経験についてひとしきり語った後、彼女はこう言った。「繭子さんの研究に関係ないかもしれないけど、もうちょっとこの話してもいい?」この彼女の台詞は、オーラルヒストリーを用いた聞き取り調査における二つの問題点を提起している。一つは、彼女が「研究に関係がある・ない」について何かしらのイメージを持ちつつインタビューを受けているという点。そしてもう一つは、上記の彼女の問いにオーラルヒストリーを使用している研究者としてどのように答えればいいのか、という点である。
 オーラルヒストリーの特性上、研究対象者の語りは彼ら・彼女らが望む道筋を辿るのが正当であるといえる。しかし、上記の問題点のうち、前者は研究対象者の語りが必ずしも外部、とりわけ研究そのものや研究者からの影響から自由であるわけではない事を示している。加えて、研究者のジェンダー、年齢、社会文化的背景などの個人的要素が研究対象者と共有される場合、研究者が持ちうる研究対象者の語りへの影響は特に大きくなる可能性がある。さらに、後者はオーラルヒストリーを用いてインタビューを行う上で「研究対象者の独自の語りにフォーカスをあてる」という方法論的な目的と「自身の研究に有効なデータを収集する」という研究の実際的な目的が容易に相反しうるという事を示している。
 本報告では、オーラルヒストリーの方法論的有効点を指摘すると共に、上に挙げられた二つの問題点について、どのように対処すれば方法論を曲げることなく研究を進めていけるのかについて考えたい。とりわけ、研究者と研究対象者の関係性を「研究」という大枠の中の一つの構成要素と捉え直しデータ分析に織り込む事により、オーラルヒストリーの特質・有効性を損なう事なく個人史・個人的歴史に関する研究を進めていけるという可能性を提案する。

発表者名:内田雅克
発表題目:野球とジェンダー ――占領下日本の「少年」と「男性性」――

この数年、私は日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争までの歴史的文脈において、「少年」というジェンダー・カテゴリーが映し出した、「男性性」のなかの“ウィークネス・フォビア”―「弱」に対する嫌悪と、「弱」と判断されてはならないという強迫観念 ― を検証してきた(拙著『大日本帝国の「少年」と「男性性」― 少年少女雑誌に見るウィークネス・フォビア』)。史料の一つである雑誌『少年倶楽部』は、戦前に圧倒的な発行部数を記録し、「少年」に多大な影響を与えたが、同時に「男らしさ」の構築を暴露するものでもあった。
 このジェンダー・イデオロギー生産装置であった『少年倶楽部』は、終戦直後の1945年から46年にかけて、平和・民主主義・芸術などを声高に語った。しかし、この雑誌の特徴である「国家の一員と見なす『少年』への熱いメッセージ」は、1947年頃から消失する。替って登場したのが、戦後に再び人気スポーツとなった野球であった。軍人が消えた後、その空席を埋めた野球選手は、軍人同様に「少年」のモデルとなっていく。戦前に同誌の編集長であった加藤謙一によって、『野球少年』が発刊されたのも1947年である。占領軍の「日本的男らしさ」復古への警戒が武道の禁止に至った一方で、野球は戦後まもなく復活している。物質的に豊かで「強い国」アメリカのベースボールは、戦前以上に人気を博し、「少年」の世界にも浸透していった。だが、はたして野球は戦後の混乱のなかで、夢・希望・娯楽・健全さを提供しただけなのだろうか。
「軍人として国家のために死ぬ」という「男の証」「弱ではない証」、そして拠り所である「強い国家」は消失し、「男らしさ」「男の連帯と優越」は脅かされる。そこに、占領下の日本人男性の「男性性」を再定義する装置として作用したのが野球ではないだろうか。戦時下の軍学校や少年兵の世界と同様に、「少年」を囲い込み、「少女」を排除したホモ・ソーシャルな野球の姿は、軍隊と重なりはしないだろうか。19世紀末にアメリカでマスキュリニティと結びつけられたベースボールは、『野球少年』の飛田穂洲の記事が示すように、「日本的な男らしさ」とされる精神力が付加された「野球」となる。それは「男らしさ」を表象し、「少年」を序列化し、その「強弱」と「優劣」を判定し、ウィークネス・フォビアを刷り込む装置として機能していく。チームスポーツのなかでも、一人一人の出番が用意され、その力量が露呈する野球は十分にその機能を果たしうるものであろう。
 本発表では、占領下、とくに45~47年に注目し、『少年クラブ』、『野球少年』といった少年雑誌をおもな史料とし、野球が見せる占領下日本の「少年」と「男性性」の再定義を歴史的文脈のなかに考察する。さらに「健全なる球児」という普遍化したイメージの下に、不可視にされがちな「少年」とスポーツに関わる問題性に言及したい。

パネル1:第二次世界大戦下、表象にみるジェンダー秩序の揺らぎと再編 -日本・ドイツ・イギリス 加納実紀代・桑原ヒサ子・杉村使乃(敬和学園大学「戦争とジェンダー表象研究会」)

 第2次世界大戦は1939年9月、ドイツのポーランド侵入に始まり、45年8月の日本降伏で終結する。それは日本・ドイツ・イタリアを中心とする枢軸国対連合国約60カ国という壮大な世界戦争であり、武力だけでなく経済力や宣伝力、国民の精神力を総合した総力戦だった。当然女性も戦時体制に組み込まれ、軍需生産や、場合によっては軍の要員として働いた。それによって既成の「公=男性/私=女性」というジェンダー秩序はどのように揺るがされ、また再編されただろうか。
敬和学園大学「戦争とジェンダー表象研究会」では、こうした問題意識のもとに共同研究を続けてきた。本パネルではその中から、枢軸国側として日本とドイツ、連合国側としてイギリスを選び、それぞれの国において国民動員上重要な役割を果たした雑誌の表紙を中心にジェンダーの視点で分析・比較を行う。
そこからみえるのは、戦時下の女性動員によるジェンダー秩序の揺らぎに対する体制の危機感と、戦況によるご都合主義的なジェンダーの再編成である。この傾向は枢軸国側に著しい。「婦徳」や「母性」が強調されるのは、ジェンダー秩序の揺らぎに対する危機感の表れとみることができるが、戦況悪化の局面においては母性主義を基本理念とするナチス・ドイツも、男性戦力の補助として女性を動員し、結果として女性たちの間に大きな犠牲を出した。日本も同様の傾向にある。
それに対してイギリスのメディアでは、開放的な女性の姿で大国イギリスの「ゆとり」や「自由」が表象される傾向も見られた。また同じ枢軸国でも、日本が植民地・占領地の人びとを含めてジェンダー秩序の再編成がはかられるのに対し、ドイツではそうした傾向は見られないといったちがいがある。日本のかかげる「大東亜共栄圏」とドイツの「生存圏」のちがいによるものであろうか。
これまでの研究では、第2次大戦下の女性の戦争参加を、「男の砦」である軍隊へ女性を導入する統合型と導入しない分離型に分け、連合国側の米・英・ソ連などは統合型、枢軸国はいずれも分離型とされていた。しかしドイツの報告に見られるように、本パネルはこうした既成の見方に修正を迫るものである。

1,日本の場合(加納実紀代)
 日本においては、1931年の「満州事変」以来中国との戦争が継続しており、そのなかで戦争プロパガンダの必要性を痛感した政府は38年2月、大衆的な国策宣伝を目的として『写真週報』を創刊した。発行は内閣情報部(のち情報局)、通常A4版24ページ。部数は一説には150万部とあるが、正確なところはわからない。41年の読者調査によれば、男性読者62%に対し女性38%。学歴は小学校卒業程度が61.8%を占める。
 敗戦直前の45年7月まで、合併号を含め計370冊が刊行されたが、うち290冊は表紙に人物写真を使っている。うち91件は女性、182件は男性(残りは群衆・子ども)だが、そのなかには植民地・占領地の男女の写真も使われている。つまり『写真週報』には、戦争プロパガンダにおけるジェンダーと民族表象が集積されていることになる。それらはどのように操作され、戦争拡大につれてどのように変化するだろうか。
 おおまかにいえば、日本人については基本的に「男は前線、女は銃後」というジェンダー秩序が生きているが、41年12月のアジア太平洋戦争開戦以後は女性も軍需生産を担い、被支配地女性の指導者として表象されている。いうならば<男性性>の付与である。そのぶん<女性性>は被支配地女性に転嫁されている。彼女たちは美しい笑顔で日本への<従属>を表象している。それに対して被支配地男性は指導者や戦士として表象され、「大東亜共栄圏」の<平等性>をアピールしている。民族における被支配性は、被支配地女性というジェンダーに集約されているといえるだろう。

2,ドイツの場合(桑原ヒサ子)
 ドイツについて考察するにあたり、女性雑誌『ナチ女性展望』(1932年7月1日号~1944/45年号)を対象にした。この雑誌が、当時の女性雑誌市場において第1位の発行部数を誇る官製雑誌であったからである。ここでは、表紙のジェンダー分析を通して、国民社会主義のジェンダー秩序が、戦争に突入することによってどう揺らいでいったかを検証する。
 『ナチ女性展望』では1936年3月第2号(この時期、隔週発行だった)までは雑誌名をデザイン化した表紙を一貫して使っており、表紙に写真や絵が掲載されるのは1936年4月第1号からとなる。それ以前にも時々表紙に例外的に写真や絵が掲載されたものは対象にした。そうすると、第二次世界大戦開戦までの表紙の数は92枚、開戦から廃刊までは98枚、通算190枚になる。
 男性表象と女性表象の割合は、全体の期間では男性が20%、女性が29.4%(戦前は16.3%と26%、開戦後は23.5%と32.7%)となる。
 戦前の男性表象は、兵士、農民、ヒトラーなどの著名人、ヒトラー・ユーゲント、騎士、父親の役割に分散しており、特徴的な役割は浮かび上がらない。あとで見るように、戦前の女性が「母親」として位置づけられているのに対して「父親」としての影の薄さが目を引く。開戦後には「父親」の表象は全くなくなり、男性表象の70%が「兵士」に集中する。ここには、男性=民族共同体のために闘う兵士、という理解が見て取れる。
 女性表象では、戦前に「母親」として表象されるケースが54%に昇っている。ナチ指導部は女性の役割を子どもを産み育てる母親と規定したので、当然の数値といえる。ところが開戦後の女性表象は、母親、農村女性、民族衣装の地方出身者、戦時活動の女性、女子青年団員などに分散している。
 さまざまな役割への女性表象の分散は、戦争遂行が徐々に、そして、あらゆる場面において女性の戦時活動を要求した結果である。将来の兵士を産む母親としての役割だけでなく、農村女性は召集された農村男性に代わって夫の仕事を引き受けたし、農村支援義務を果たす女子青年団員の姿も増えた。さらに、戦争が長引くにつれて、都市部の軍需工場に動員される女性や母親の写真、果ては、男性の聖域とされた国防軍の高射砲補助員として制服を着用した若い女性たちの写真も表紙に登場した。

3、イギリスの場合(杉村使乃)
イギリスは結果的には戦勝国となったが、激しい空襲を受け、前線と銃後の区別が曖昧になり、女性を含む多くの国民が戦時労働に従事した。写真週刊誌『ピクチャー・ポスト』(Picture Post:Hulton’s National Weekly)の表紙を取り上げ、開戦までの傾向を踏まえ、1939年9月から、1945年末までの表紙を対象とし、総力戦を戦う上で写真がどのように「国民」を表象しているのか分析する。
『ピクチャー・ポスト』は1938年10月に創刊し、75万部を瞬く間に完売し、4か月後には百万部以上出版された。記事や広告の内容から、男女ともに広く読まれていたことが伺われる。「普通の人びとordinary man and woman」を尊重し、彼らの視点に立ち、彼らの生業に関心を持ち、写真によって物事を伝え、政治的には民主主義を推し進め、全体主義に反対する姿勢をつらぬくという編集方針で大きな支持を得た。
創刊から1945年の表紙写真では女性43%、男性39%で、女性の登場がやや上回る。女優など娯楽分野は女性全体の46%を占め、次いで目を引くものは最新のファッションや季節感を伝える若い女性たち(girls)である。表情は笑顔で、脚線美を大胆に見せている写真も目に付く。固有名詞が表示される女性は女優やダンサーなど、男性の場合は政治家、軍人、またスポーツ選手である。開戦後は、依然として女優の登場が最多であるが、戦時労働につく女性たちが現れ、女性全体の11%に上る。一方、娯楽分野の男性表象は殆どなくなり、兵士や軍事労働の男性が男性全体の42%に上る。男性表象では複数の男性が協同する構図が多く、「男同士のつながり」を印象づける。一方、戦時労働の女性は、表紙では単独で美しい笑顔が強調されている。一見、チアガール的に表象されていると見える戦時労働の女性も、彼女たちの力がさらに必要とされる1940年以後、記事では真剣に作業に取り組む様子も伝えられていた。しかし、彼女たちの姿は終戦と共に消えていった。
母子像は女性全体の一割にも満たないのに対し、戦時下でも依然としてファッショナブルな若い女性たちは多く掲載されている。こうした戦時下と相反するような写真の掲載は、読者の関心を引くためもあるだろう。また一見、退廃的にさえ思われる陽気な若い女性たちの姿は「自由」を象徴し、ナチス・ドイツとの差異化という「思想戦」に貢献していたと考えられる。

パネル2:「ことば・文字・女の解放」
コーディネイター 湯山トミ子
第一報告:遠藤織枝(日本語・日本語教育・中国女文字研究)
第二報告:田中克彦(社会言語学・モンゴル学)

問題の背景と所在
  2010年1月中国のインターネット上で、上海の弁護士葉満天士により、「妖」、「嫌」、「奴」など16の「女編のつく」漢字が、「男性優位の封建社会の名残をとどめ、マイナスイメージをもち、女性の社会的評価を下げている」として、中国の国務院国家言語文字委員会に改定要請書が提出され、話題を呼んだ。論議の結果としては、漢字が伝統文化の積み重ねの中で形成されたものであり、また「漢字それ自身に差別の意味はなく符号に過ぎない」、「もともと漢字は現代社会とは異なる古代の人々の意識や社会制度を反映するものであるから、言葉がりをすればそのすべてを変えねばならなくなる」旨を主張する漢字学者王寧氏らの主張などによって、提案が実を結ぶこともそれ以上の論議を呼ぶこともなかった。しかし、男性を形成の主体者として生み出され用いられてきた漢字が、意味を伝える道具として機能し、排他性をもつ性文化を形成するものである点に改めて注意を促した点は注目される。漢字を使うことに慣れ親しんでいる現代の私たちは、漢字という文字の役割と女性の存在、そして女性文化のあり方を改めて掘り起こしてみることが問われているものと考える。
日、韓、中、ベトナムを世界の他の地域と色分けした地図がある。アルファベットによる表音文字と漢字による表意文字の使用地域を示した世界地図である。東アジアの三カ国――日、韓、中の言語と文化について語るとき、漢字による文化の形成を無視することはできない。漢字と漢字から作られた仮名(かな)を使い今日にいたった日本、漢字からハングル文字へと転換してきた韓国、そして漢字以外の文字言語が存在しえない中国、歴史的な文字と文化の関わりを見つめようとすれば、私たちは否応なく漢字という文字の領域、権威の聖域に足を踏み込まないわけにはいかない。多大の時間をかけて習得する漢字は、日本において、韓国において、そして中国において、長い間、男性文化の象徴であり、公的社会形成の基盤として機能してきた。近代国家形成期、及びそれ以降の現代社会にいたる歴史過程においては、日、韓、中いずれの地域においても国民教育の展開のもとで、女性もまた排除と共有の両面から漢字文化を取り込み、その文化圏に深く取り込まれていった。
本論壇では、漢字、及び漢字文化が生み出す排他性と統一性、共有性に着目し、担い手としての男性文化とそこから排除されてきた女性存在を基盤として、二つの報告を行う。第一報告は、男性主体の漢字文化から排除されたがゆえに独自の文字を自ら生み出し、女性のみのコミュニケーション世界を築いた中国の女性専用文字「女書」を取り上げた遠藤織枝氏による「中国女文字の『すごさ』とそれを産んだ女性たちの『すごさ』」、第二報告は、男性を担い手とする漢字が取り込み、囲い込んだ女性存在――偏と旁の“女”が語る女、「オンナ・おんな・女・女性」を読み解く田中克彦氏の「言語表現における女差別の伝統」である。第一報告では、女性たちが自らを男性社会から隔離し、創り上げたコミュニケーションの世界と文字文化創成の力、第二報告では男性文化に組み込まれた女の存在、――女性をめぐる二つの言語表象を通して、文字と女性を照射し、込められた女性たちの声を通して、性差を乗り越えて切り拓かれる明日の文字文化、女の解放を目指す新たなる地平を見つめることを目指している。各報告の要旨は以下の通りである。

第一報告 文字と女性 ――アイデンティティ世界の創生
遠藤織枝:中国女文字の「すごさ」とそれを産んだ女性たちの「すごさ」

中国湖南省江永県に、女性が創作し、使い、伝えてきた文字―現地で「女書」と呼ぶ―がある。最後の伝承者何艶新が71歳、新しく伝承しようとする「伝承者」が5、6人いるが、すでに変質してきていて、本来の女書は何艶新を最後に消滅するものと思われる。
         漢字が5万字も6万字も存在する中国になぜ、女性だけの文字が必要だったのか―これがわたしの研究の出発点であった。その答えは北京清華大学の趙麗明教授によれば「女性差別の産物」ということになる。つまり、漢字を学べなかった女性たちが、自らの表現手段として、創成した文字ということである。
新中国建設以前、中国の女性のほとんどは漢字を知らなかった。その中で湖南省のこの地の女性だけが文字を創成できたのはなぜか。
その要因として以下のようなことが考えられる。
① この地の女性たちの、自らの思いを伝える表現手段への渇望が他の地域の女性よりも強かった。
② この地の女性たちは少女期に、義理の姉妹の関係-結交姉妹―を結ぶ風習があり、その契りを結んだ姉妹の関係は実の姉妹よりも強かった。
③ この地の女たちは、一方的に親の決める結婚に従わされていた。
④ 結婚は、婚家の跡継ぎを生むため、労働力を提供するためのもので、舅姑の虐待、夫の暴力の待つ悲惨なものが多かった。
⑤ 結婚で実家を去り、母親・姉妹・結効姉妹との別れは非常に辛いものであった。結婚する3日前から村の祠堂に集まって歌いながら別れを惜しむ「歌堂」の風習があった。
⑥ 互いに歌で伝え合った思いを、時空を超えて伝え合いたいと熱望した。
⑦ そこで、漢字をまねて文字を作った。

しかし、そのように熱望しても、どこででも文字のような文化的創造物が創成できるわけではない。それを許す環境が必要である。さいわいこの地はその環境があった。
① この地は温暖で水が豊富、米が年に2度収穫できるという自然条件に恵まれている。② 農耕は男性が、女性は家事・女紅という役割分担がはっきりしていて、女性は野良  
に出なくてもいい。
③ 気の合った女性たちが集まって女紅をしあう、「文化的」環境があった。

こうして、創成した文字で、女性たちは三朝書を書いて、嫁ぐ娘に送った。もらった娘は辛い結婚生活を、それをみることで慰められた。晩年には女性たちは、長い自伝を書いた。この自伝で、この地の歴史を伝え、当時の女性たちの生活や思想を伝えた。
この文字は、現地の女性たちの表現手段であり、癒しの手段であっただけで
なく、後世の者に、国家中央の歴史には出てこない地方の庶民の歴史を伝え、庶民の苦しみと悩みを訴えかけている。

第二報告 漢字と女――組み込まれた女性表象
田中克彦:言語表現における女差別の伝統

差別語糾弾運動がもりあがっていたころ、ことばだけいじったって問題は解決しないと水をかける人たちがいた。しかし、ことば=言語表現の役割は、人の意識に直接はたらきかけるから、決して軽くはない。女にかかわるサベツ的表現の問題は、1970年前後、欧米でさかんに論じられた後、日本に輸入された。英語のchairman(議長)の-manは、この役割が女にもありうることを排除しているからというので、chairpersonにかえる運動があったとき、わたしには,トッピなことのように思われたが、これから生まれてくる子供たちには、当然のこととして受け入れられるだろう。何よりも習慣を変えようとすれば、強い抵抗にあうのはやむをえないことだ。
 アジアの諸言語、とりわけ漢字を使っている言語には、この文字を通して幾千年も昔に定着したイデオロギーが生きつづけるという仕組みになっているから、欧米語がかかえている問題とは比較にならない根深い問題がある。しかし、ことばジリをとらえてあれこれ議論するのは、はしたないことだとする感覚もひろく支配している。だから「宴会」の「宴」や「娯楽」の「娯」になぜオンナが必要なんだ、オンナをやめろなんて言い出したら笑いものになるかもしれないが、今回は笑いものになるのを覚悟で私の考えたことを述べさせていただく。

報告者・コーディネイター紹介:
遠藤織枝(えんどうおりえ):日本語・日本語教育・中国女文字研究
『中国女文字研究』明治書院 2002年、『消えゆく中国女文字の世界』遠藤織枝ほか、2009年 三元社)など 
 田中克彦(たなかかつひこ);社会言語学・モンゴル学
「差別としての文字」(『ことばのエコロジー』ちくま学芸文庫、筑摩書房 1999年)など
 湯山トミ子(ゆやまとみこ):中国近現代文学・中国社会文化論(中国の家族と子ども)、「近代中国知識人における儒教規範と母子関係――“母の息子”魯迅の場合」(『成蹊法学』66号 2008年)など

パネル3:衣生活の変化と帝国・植民地(井上和枝代表)
・井上和枝:植民地朝鮮における衣生活の変化─チマチョゴリからモンペへ
・井内智子:日本における“非常時”服流行とモンペの普及
・平野鶴子:染色講習会の展開について

1920~40年代に日本本国及び植民地朝鮮・台湾で行われた生活改善運動は、本国と植民地では基本理念や方法などで差はあるものの、旧来の生活慣習を改めて衣食住全般にわたる生活の合理化と科学化を図るという点では共通性を持つ運動であった。衣生活の分野では、日本では洋装の奨励が早くからなされ、農村に波及するに従って礼服の簡素化と仕事着の着用奨励へと変化していく。朝鮮では官人や学生着の洋服化、韓服の改良から始まったが、最も焦点になり、長い間ひとつの国民的運動になったのは「色衣」の着用であった。台湾においても、衣生活に関する改善は、チャイナドレスの改良、洋服普及として現れる。
こうした日本と朝鮮・台湾の衣生活の変化は、日本人・朝鮮人・「台湾人」の伝統的な衣服観や色彩感、さらには生活感覚と近代合理性、衛生観念を含む近代知のせめぎあいでもあった。また、植民地においては特に皇民化運動以後、支配側の衣服に対する政治的支配力は強化される。朝鮮では民間の「色衣」運動を飲み込んだ白衣着用への実質的統制が行われ、台湾では布製牡丹をチャイナドレスから切り取る行政指導等が行われた。
それに対し、植民知側は、民族的記号としての衣服を従来通り着続けるという形で、無言の抵抗を示していく。
衣服にくわえられる政治的支配力は、1943年に日本本国で「戦時衣生活簡素化実施要項」を閣議決定して以降、その暴力性を強めることになる。男性の国民服、女性のもんぺ着用の強制である。植民地においてもモンペ着用は強力に推し進められたが、朝鮮と台湾では温度差があり、またそれぞれ、着用する女性たちの階層によっても強弱があった。
本パネルでは、日本近代史・朝鮮近代史を専攻する研究者が、近代における衣服の合理化・衛生化の視点から行われた衣服改善を跡づける中で、もんぺ着用へと収斂される生活末端への帝国と植民地の戦時統制の問題を扱う。3つの報告は、朝鮮における衣服改善の焦点であった、「色服」着用のための染色講習会、労働服に起源をもち、「日本人らしさ」の表象となった「もんぺ」が戦時期の服装としてどのように浸透していったのか、帝国のもんぺが植民地に対して、どのように強制されていくのか、着用する側の植民地の女性たちは「民族の記号」としての伝統服とどのように折り合いをつけていくのか、あるいは無言の抵抗として伝統服を着続けていくのか、それらをテーマとして展開される。
 なお、本パネルは、大会テーマのジェンダーと植民地支配の問題を、より日常次元で詳細に扱うことを目的に計画された。

朝鮮における婚姻の「慣習」と植民地支配
―1908~1923年を中心に―
野木香里
 「韓国併合」から2年後の1912年、朝鮮総督府は民法を朝鮮に適用したが、朝鮮人の能力・親族・相続などに関しては朝鮮の「慣習」に依ると規定した。そのため、婚姻に関しても「慣習」に依って規定されることとなった。朝鮮総督府は、1908年から日本人の主導で行われた慣習調査の結果を中心に婚姻の「慣習」を判断し、さらに追加で「慣習」を調査し続けた。「慣習」に依るとした規定は8・15まで廃止されなかったが、民法の適用範囲は少しずつ広げられ、それが朝鮮人「女子ノ人格ノ向上ヲ認メ」ることにつながったと認識されていた。こうした朝鮮総督府の政策・認識は、朝鮮の「慣習」を歪曲、同化したものだと指摘されてきたが、それだけでは十分に捉えきれない側面が明らかになってきている。本報告では、朝鮮総督府が朝鮮における婚姻の「慣習」をどのように把握、規定したのかを、各地の慣習調査報告書、朝鮮高等法院判決録などから検討する。その作業を通して、朝鮮総督府が婚姻の「慣習」を規定する過程には、ジェンダー、階層、民族、地域といった日本の朝鮮植民地支配の根幹となる要素が凝縮されていたことを浮き彫りにしたい。

日本統治下台湾における既婚女性の姓について
栗原 純
  日本統治下の台湾には戸籍制度がなく、代わりの便法として警察により作成される住民の動向調査簿、すなわち戸口調査簿が身元確認などに利用されてきた。しかし、戸籍がないため、内地人女性と本島人男性による婚姻は法的には成立せず、「内台共婚問題」の解決が統治政策の課題とされてきた。その後、皇民化の過程において、内台共婚を法的に可能とするために、戸口調査簿を便宜的に戸籍に昇格させ、共婚を成立させることとした。台湾の戸籍制度か共婚法と呼ばれる所以である。
 これを機とし、それまで戸口調査簿に記載される既婚女性の姓は、旧姓の上に夫の姓を加えるという「台湾的」な方式がとられてきたが、皇民化推進のために、内地式、すなわち、夫と同姓とすることに「改正」され、さらに、その姓を日本人の姓に強制的に改姓する政策が採られた。

「植民地政策と婚姻法―アフリカ・ザンジバル保護領(英領)の事例から」
富永智津子
 アラビア半島とインド亜大陸との長い交流の中で展開してきた東部アフリカ沿岸部の諸社会は、19世紀末、英・独・伊によって植民地化された。私がフィールドとしてきたザンジバルは、イギリスの「保護領」となり、1963年に独立。翌年には本土のタンガニーカと連合し、タンザニア連合共和国を構成して現在にいたっている。イスラーム教徒が9割以上を占め、アフリカ系、アラブ系、インド系の住民が混住する多民族社会である。本報告では、イギリスが導入した裁判制度の「近代化」が女性の婚姻上の地位にどのような影響を与えたかを検証し、それを通して、ジェンダーの視点からイギリス支配のあり方を議論してみたい。資料としては、イギリスが導入した婚姻法とイギリス法廷の裁判記録を主として使用する。具体的には、①導入された婚姻法とイスラーム法の違い、②伝統的なイスラーム法廷(カーディ裁判)で敗訴した女性がイギリス法廷に上告した事例を取り上げる。

ジェンダー史学会公開シンポジウム

“New Woman”の記憶──100年前の「new(新しさ)」を比較再考する

【日時】2010年6月12日(土) 14:00~17:30
【場所】甲南大学岡本キャンパス 5号館1階511教室

【シンポジスト】
 ◆司会進行 北原恵(大阪大学)
 ◆報告者  
   牟田和恵(大阪大学)   「New Woman/新しい女をめぐる政治」
   山内恵(津田塾大学)  「ニューウーマンからニューマザーへの模索
            ――C・P・ギルマンのジレンマ」
   石井香江(四天王寺大学)「時代を超える〈ノイエ・フラウ〉の挑戦
            ――ヒルデ・ラートゥーシュの足跡をたどって」

 ◆コメンテーター  
   井野瀬久美惠(甲南大学)

【企画主旨】
 今から100年ほど前、19世紀末の欧米諸国で、そして日本や東アジア諸国に(わずかな時差とともに)登場した、“New Woman”と呼ばれた女性たちを再考する。
 彼女たちの何が“new”と認識されたのか。この“new”は、「他者」と遭遇したとき、階級やエスニシティといった別の境界線に直面したとき、あるいはその境界を超えたときにどう変化したのか。また、この“new” は、彼女たちのジェンダーやジェンダー認識とどう関わっているのか。そして、この“new”は、いかに記憶されたのか。
 以上の問題を比較ジェンダー史の視点から再考してみたい。

【共催】イギリス女性史研究会

*なお同日11:30からは、共催するイギリス女性史研究会の年次研究会にて、同じテーマで「イギリスのNew Woman」に関する報告がございます。こちらの方も合わせてご参加ください。

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