第6回ジェンダー史学会大会プログラム

日時 11月29日(日)
場所 立教大学 (池袋):10号館

○ 自由論題 10:00~12:00
部会A:文学・美術史・メディアとジェンダー 10号館201号室
司会および進行 江上幸子
10:00~10:40 洲崎圭子「メキシコの小説にみる構築された女の 役割とはーsoltera(独身女性)の描かれ方を通してー」
10:40~11:20 林葉子「日清、日露戦争前後のジェンダー秩序の 変容―新聞広告にみる白い肌への憧憬と性病に対する眼差し」
11:20~12:00 羽田朝子「中国のノラのゆくえー北京大学初の 女性教授、陳衡哲を例として」

部会B:経済・労働・福祉とジェンダー 10号館202号室
司会および進行 谷本雅之
10:00~10:40 後藤千織「20世紀初頭のアメリカにおける福祉 政策と男性労働者の規律化」
10:40~11:20 青柳和身「資本主義における「永続的」剰余労働 搾取の条件は何であったかー『ジェンダー平等の経済学』と『フェミニズム と経済学』のジェンダー論争ご手がかりにして」
11:20~12:00 崔 海燕「戦後日本におけるパート労働とジェンダー」

部会C:日本における女性史・ジェンダー史 10号館207号室司会および進行 野本京子
10:00~10:40 黄綿史「大正時代の女性同性愛言説」
10:40~11:20 乾淑子「愛国婦人会、大日本国防婦人会、日本赤十字社篤志婦人」
11:20~12:00 国武雅子「戦時期の婦人参政権運動とアジア認識」

部会D:アメリカにおける女性史・ジェンダー史 10号館208号室
司会および進行 高橋裕子
10:00~10:40 大原関一浩「北米日本人娼婦の抵抗の形態、1900-1920年」
10:40~11:20 岡田泰弘「占領下の日本におけるアフリカ系アメリカ人 女性のエンパワーメント」
11:20~12:00 横山美和「19世紀アメリカの月経をめぐる科学言説と 女子教育」

部会E:アメリカ以外の海外における福祉とジェンダー史 10号館209号室
司会および進行 水戸部由枝
10:00~10:40 坪田中西美貴「日本統治期の台湾先住民社会における 公共圏と親密圏におけるジェンダー『シロハンケチ』を手がかりとして」
10:40~11:20 山田朋子「分割期ポーランドにおける女性解放思想の系譜」
11:20~12:00 今井小の実「婦人方面委員とストラスブルク制度」

○ 総会 13:00~14:00 会場:10号館204号室

○ シンポジウム:「カタストロフィとジェンダー秩序の変容―パンデミック・地震・経済危機」
14:15~17:15 会場:10号館204号室
司会/趣旨説明 舘かおる 田丸理砂
新保淳乃「ペスト危機とジェンダー表象-近世イタリア諸都市におけるペスト 犠牲者イメージの創出」
北原糸子「地震災害の復興シンボルはなぜ女性なのかー江戸地震(1855年)と 関東大震災(1923年)からの考察」
中野智世「敗戦・インフレ・大量貧困-1920年代ドイツにおける女性福祉職員の 日記から」
コメンテーター 成田龍一

○茶話会 17:30~18:30 会場:10号館 (部屋番号は当日指示)

(1) 発表者名:洲崎圭子
発表題目:「メキシコの小説にみる構築された「女」の役割とは―soltera(独身女性)の描かれ方を通して―」
発表要旨:メキシコのロサリオ・カステリャノス(1925-1974)は、植民地期の天才詩人ソル・フアナ以来、300年ぶりに登場した女性作家と喧伝され、ラテンアメリカでは初めてフェミニズム批評の分野を切り開いた言われている。早くから詩作をはじめ、先住民を扱った二大長編小説を発表したほか、短編、戯曲を執筆しつつ大学で教鞭もとるなど、彼女が理想とする女性の生き方を自ら実践した。メキシコにあってカステリャノスは、生涯かけて女性の生き方を追求した。その作品群には、産まない女のメタファーとして、soltera(独身女性)が頻繁に登場する。いずれも閉塞状況に陥っており、孤独感、疎外感に苛まれている。solteraという言葉は、否定的な意味合いが込められて発せられるものであり、カステリャノスはラテンアメリカ独特のsolterasについて描きつづけた。女の人生について書き続けた作家が、産まない女の生き方にこだわった理由はどこにあっただろうか。
報告者はこれまで、作家が執筆活動の最初から女性に関わる問題に重きを置いていたことに着目し、インディヘニスモ(先住民擁護主義)文学に新風を吹き込んだとされてきた一連の小説群をむしろフェミニズム的観点からアプローチし、欧米における第二波フェミニズムの流れを先取りしていたということを指摘してきたところである。
植民地社会においては長らく、強大な家長(=農園主)権力の下、家父長的擬似家族制度が展開されていた。すなわち、家長の支配力をそのまま国家統治機構に組み込むことにより、植民地社会の末端に至るまで、支配が可能となったからだ。メキシコでは、スペインからの独立以降もそのしくみは堅持され、なおかつより強固なものとするために、家族制度が利用されることになる。その結果、女には「母」としての役割が強要された。女であることが権力構造の内に確実に組み込まれ、女を「良き母」すなわち「産む性」とみなし、メキシコ特有の家族像が立ち上がる。女が「産む性」として支配され管理の対象となったことに伴って、産まない女・産めない女は忌避されることとなる。
本報告では、カステリャノスの長編小説『バルン・カナン』(1957)をsolteraに焦点をあてて分析することにより、女が権力構造のなかに「取り込まれていく」/「周縁化されていく」状況を検討する。物語におけるsolteraの一人である農園主一族の娘は、未婚のまま中絶することになったため共同体から追放された。他方、語り手の6歳女児は、誰からも顧みられず疎外感を抱えていたが、物語の結末に至っては唯一、将来の「産む性」として浮上する。メキシコの地方の大農園を背景に、農園主を家長とした伝統的家族制度と、女の役割の構築の関係について、「産む性」という側面から論じたい。

(2) 発表者名:林 葉子
発表題目:「日清・日露戦争前後のジェンダー秩序の変容―新聞広告にみる〈白い肌〉への憧憬と性病に対す眼差し」
発表要旨:本研究は、近代日本の戦争とジェンダー秩序の関係についての解明をめざす試論である。日本における医学の近代化は富国強兵政策と不可分であったが、明治期の日本における性病の問題は、主に軍事的な関心からとらえられていた。したがって日本における近代公娼制度の変遷は、戦争の歴史と重なっている。近代公娼制度については、女(娼婦)だけが性病検査の対象となるという〈性のダブルスタンダード〉が指摘されてきたが、日露戦争前後には、この〈性のダブルスタンダード〉のありかたに変化がみられる。娼妓に対する検黴だけでは不十分で、軍が独自に兵士たちへの性病検査を行わなければならないということが、軍の内部で論じられるようになる。
こうした変容は、明治期の新聞広告、とりわけ売薬広告、病院広告、化粧品広告の内容にも映し出されている。明治期の新聞広告の中において、性病に言及したものの割合は高いが、それらを分析すると、日清・日露戦争、とくに日露戦争の前後において、性病のイメージとジェンダーの関係という点において、大きな変化があったことに気づかされるのである。
したがって本研究では、日清・日露戦争前後の新聞広告における性病のイメージを分析し、戦争がジェンダー秩序の変容に及ぼした影響の一端を明らかにしたい。この時期には、性病薬や病院の広告だけでなく、化粧石鹸や化粧水の広告においても性病への言及が頻繁にみられた。当時の広告には、「色を白くする」「白美ならしむる」「男女を問はず眞の白色の美人となる」といった形で〈白い肌〉のイメージが多用されているが、これは現在の化粧品広告における「美白」とは意味が異なる。明治期における〈白い肌〉の対義語としての〈黒い肌〉とは、日焼けした肌のみならず、皮膚病、特に性病罹患者の肌のことを指していた。たとえば開国の頃の日本の都市では、三十歳の男の約三分の一が黴毒に罹患していたという記録があるが、現在と比較すると、明治期の日本では、性病はきわめて身近な病であり、未だ梅毒の特効薬も登場しておらず、それらの性病に悩む人々をターゲットとする広告が、新聞に多数掲載されていたのである。本研究では、その性病に言及した新聞広告における性病のイメージについて、ヴィジュアル・イメージと言説の双方を対象とし、とくにジェンダーに着目して、分析したい。その分析にあたっての着眼点の一つは、性病罹患者としてイメージされているのは、女か、男か、その双方か、という問題である。性病は誰の病であり、誰から伝染する病として表現されているのかを分析して、その変容の過程を追う。第二の着眼点は、「薬」の広告と「化粧品」広告の分化の時期についてである。日露戦争前には、いまだ「薬」と「化粧品」の境界は曖昧で、「化粧水」が性病を治療しうるかのような広告表現がみられたり、化粧石鹸に黴毒や鉛毒の「消毒」効果があるかのような表現もみられた。またその同時期には、「化粧水」販売のターゲットは「男女」双方であった。しかし、日露戦争後になると、しだいに化粧品は「薬」とは異なるものとして、主に女性が用いるものとして表現されるようになる。このような新聞広告にみられるジェンダー・イメージの変化は、当時の一般民衆が抱いていたイメージと近いものであったと考えられる。そして、当時の一般の人々が抱いていた性病イメージについて分析することによって、性病対策の「衛生」論に依拠していた当時の公娼制度のあり方や、同じく「衛生」論と強く結びついていた「廃娼」の言説の、社会的な背景について、部分的ではあるものの明らかにすることができる。

発表者名:羽田 朝子
発表題目:「中国のノラのゆくえ――北京大学初の女性教授・陳衡哲を例として」
発表要旨:中国の新文化運動(1910年代後半~20年代)において、そのリーダーであった胡適(1891~1962)は、当時の先進的な啓蒙雑誌『新青年』に次々と女性解放理論を発表した。同時にイプセン劇『人形の家』を翻訳し、ノラを男尊女卑・三従四徳を強いる封建的家を出て、自己独立した生活を求めた「新しい女性」として紹介した。そして青年知識人の間では「ノラ」のように家を出て、自由と愛情に満ちた結婚をすることが理想となった。
こうした中、女性たちの中には新式の教育を受け、恋愛に基づく近代家庭を打ち立てた「ノラ」が現れた。しかしその「ノラ」の多くは、結婚後は主婦となるか、夫の補佐的な仕事をするにとどまり、主体的な社会的活動を放棄したかのようである。
例えば陳衡哲(1890~1976)は旧家庭に生まれたが、新式の教育を受け、第一回の国費女性留学生としてアメリカに留学した。そして帰国後、1920年に30歳にして北京大学初の女性教授となり、同年に留学時代からの恋人・任鴻雋(1886~1961)と結婚した。陳衡哲はまさに時代が求めた「ノラ」の代表であった。しかし彼女はわずか一年で出産のため北京大学を辞職し、家事や子女の教育のため家庭に入ってしまう。その後は女性作家として創作や著作を発表したが、夫の任地に従って良妻賢母の役割を優先させ、自身もそれに対し生涯何の不満も表明していない。
これまで陳衡哲は初期の女性作家として女性文学史の中で触れられることはあっても、「近代家庭」や女性解放思想の文脈で取り上げられることは殆どなかった。本発表では「女性も才能を発揮するべき」と唱えた陳衡哲が、出産後に社会的地位を捨て、家庭に入る選択をしたことにはどんな背景があったのかについて焦点を当てる。
第一に、陳衡哲の選択に対し周囲の男性知識人はどう対応したのか。陳衡哲を北京大学教授に推薦したのは、「ノラ」言説の中心人物である胡適だった。彼は「良妻賢母を超える人生観」を唱え、女性の社会参与を大いに主張していた。しかし胡適は陳衡哲が結婚した時、子を産まず仕事に専念することを勧めた。そして後に陳衡哲が北京大学を去ったことに対し、「以後、女性を大学教授に推薦できなくなった」と失望するだけで、子を産んだ後の彼女を社会復帰させることは思いもよらなかった。彼の言説には女性の「産む性」が包括されていなかったのだ。
第二に、陳衡哲自身の女性観、特に理想とする母親像との関連である。これには陳衡哲の生まれた旧い家とその母が大きく影響している。陳衡哲の母は荘耀孚という中国画家で、その実家の荘家は女性の教養を重視する伝統を持っていた。また封建的な父も才女である母をこよなく愛した。陳衡哲は母が良妻賢母としての役目を果たしながら才能を発揮したことに敬服しており、彼女にとって旧式の女性である母は決して否定される存在ではなかったのだ。
新文化運動期には先進的な女性解放理論が登場したが、それは現実に女性が直面する問題を包括していなかった。そして現実の男女関係は旧社会と厳然として連続しており、男性だけでなく女性自らにも性別役割分担の意識が根強く残っていたのだ。『人形の家』の原作では、ノラは愛に満ちた近代家庭に潜む男女不平等に気づき、家を出た。しかし「人生は愛こそすべて」と言いきる陳衡哲――中国の「ノラ」は、近代家庭を安住の地と信じて疑わなかったのだ。

発表者名:後藤千織
発表題目: 「20世紀初頭のアメリカにおける福祉政策と男性労働者の規律化―扶養義務不履行・家族遺棄の裁判事例から―」
発表要旨:本報告は、20世紀初頭のアメリカ合衆国で家族扶養を怠った罪で法的処罰を受けた男性労働者の事例から、男性ブレッドウィナー規範を労働者階級家庭に普及させる一つの回路として福祉や法制度が果たした役割と、これらの政策に埋め込まれた中産階級的な家族観・ジェンダー観に対する男性労働者の反応を考察することを目的とする。
19・20世紀転換期のアメリカ合衆国では、男性家長による家族扶養義務不履行や家族遺棄が貧困や青少年非行の原因として社会問題化し、妻子の扶養を怠った男性を処罰する法律が各州で制定された。本報告の対象であるカリフォルニア州でも、妻子の扶養を怠った男性に1,000ドル以下の罰金か2年以内の州刑務所・郡刑務所への収容、あるいはその両方を課す刑法が制定された。近年のアメリカの社会福祉史研究は、このような法律を通じた男性労働者の規律化を、20世紀初頭に発達したジェンダー化された福祉政策と関連付けて考察している。法史学家マイケル・ウィリッヒ(Michael Willrich)は、家族を扶養しない男性労働者に対する法的処罰は、貧困女性の子育てを援助する「母親年金」と(男性)労働者を支援する社会保険というジェンダー化された福祉政策の確立に不可欠であったと論じる。そして、既存の研究がジェンダー化された福祉制度が女性の経済的自立を妨げた側面を強調してきたのに対し、ウィリッヒは扶養義務の強要という、男性労働者が経験した規律化にも注意を払うべきであると論じ、シカゴを事例に扶養義務を怠った男性労働者を処罰する裁判所制度の確立を詳細に分析している。
本報告は、このようなアメリカ社会福祉史研究の成果に依拠しつつ、家族扶養を怠って法的処罰に直面した男性労働者の生活世界を再構築し、福祉政策や法律に埋め込まれた中産階級的な家族観・ジェンダー観を彼らがどのように解釈したのかを考察する。というのも、これまでの研究は男性労働者の規律化に従事した福祉団体や裁判所の活動を主に分析しており、男性労働者がどのように規律化政策に反応したのかは明らかになっていないからである。本報告は、1910年代から1920年代初頭のカリフォルニア州サンディエゴ郡に対象を絞り、史料としてサンディエゴ郡上級裁判所や治安判事裁判所の扶養義務不履行/家族遺棄に関連する裁判事例、福祉団体の活動記録、新聞記事を用いる。これらの史料に基づき、(1)扶養義務不履行/家族遺棄で処罰を受けた男性の経済的背景・人種・エスニシティ、(2)男性労働者が扶養を怠った背景、(3)コミュニティや家族による男性労働者の監視のあり方、(4)法的処罰に対する男性労働者の反応を具体的に分析する。扶養義務不履行/家族遺棄の裁判事例は、ジェンダー化した福祉制度の草の根レベルでの作用に加えて、「家族賃金」思想が労働者階級家庭に普及する際に生じたコンフリクトを理解する一つの視点を提供すると考える。

発表者名:青柳和身
発表題目: 「資本主義における「永続的」剰余労働搾取の条件は何であったか―『ジェンダー平等の経済学』と『フェミニズムと経済学』のジェンダー論争を手がかりにして」
発表要旨:現代資本主義が推進している非正規雇用等の新しい低賃金雇用形態は、事実上、次世代再生産的必要労働部分(養育と労働能力養成)を除外し、労働者個人の最低生計費に必要労働を限定する低賃金となっている。現代資本は、資本の再生産に不可欠な労働者の「永続的定在」条件である次世代再生産的必要労働すなわち未来の剰余労働基盤を自ら収奪・破壊しつつある。したがって剰余労働の永続的搾取のための条件は何であったかという根本問題の検討が改めて必要になっている。二宮厚美『ジェンダー平等の経済学』と青柳和身『フェミニズムと経済学』とのジェンダー(性差別)論争はこの問題が中心であり、この論争を手がかりにして次世代再生産問題を考察する。
二宮著作は、青柳著作を含むフェミニズム諸理論の資本主義的性差別論(近代家父長制論)を批判し、生産手段の家父長制的所有から分離された労働者家族は性差別条件から解放されていること、機械制生産の発展は女性の賃労働者化を推進し、家父長制を解体すること、したがって現存の性差別は、土台内部に根拠をもたない上部構造的要因にすぎず、したがって資本は原理的に性中立的(ジェンダー・ニュートラル)であると主張している。この批判は、『資本論』の次の一句を資本の労働力再生産への無関心性と捉えた上で、フェミニズムのジェンダー(性差別)論の経済理論的欠陥に対する批判をマルクス経済学的立場から理論的に明確化したものとして、意義ある批判である。
「資本家はこの[労働者階級の維持と再生産という]条件の実現を、安心して労働者の自己維持本能と生殖本能にゆだねることができる。」(『資本論』第1巻、新日本出版社、977頁)
青柳著作は、二宮著作にも収録されている原論文を批判し、その資本主義観は『ドイツ・イデオロギー』的土台観に含まれる生殖(人口再生産)様式の視点が欠落しており、現行『資本論』の理論的枠内のみの議論にすぎないこと、資本主義は、女性からの「生殖権reproductive rights」の国家的剥奪(伝統的薬草利用中絶や産婆中絶の禁止および中絶禁止法等の国家的生殖管理体制の成立)を通じた、18世紀30年代以降のイギリスの持続的人口増加にもとづいた資本蓄積によって自立的生産様式として成立したものであり、土台内部に性差別要因を内在していると主張している。
本報告では、生殖様式の生産様式における位置づけと資本循環視点の相違による生殖問題の取り扱いの相違にかんするマルクスの捉え方を経済理論的に検討するとともに、資本主義的人口増加を開始したイギリスの18~19世紀の人口再生産の実態(婚前妊娠率・私生児出生率の急増および「乞食結婚」的早婚・皆婚化を伴う出生率急増)と生殖様式の歴史的変化を経済史的に検討し、ジェンダー論争の解決方向について考察する。

発表者名:崔 海燕
発表題目:「戦後日本におけるパート労働議論とジェンダー」
発表要旨:今日、主婦の短時間労働として広く知られるパートタイム労働は、その主体が女性であることから多くの女性運動家や女性研究者たちの関心を呼んできた。しかし、「パート擁護派」が女性問題の一環としてパート問題を取り上げ、何十年間を戦ってきたにも関わらず、パートと正社員との格差は依然として大きい。一方、政府がパート労働に関する政策を打ち出す際、常にパートとして働く主体の「特性」を念頭に置くが、その特性は家事と就労との両立を図ろうとする女性を指している。1993年制定されたパートタイム労働法がパートタイマーの地位改善において実効性が弱い点はよく指摘されるが、その原因は立法の対象を「家庭主婦」に限定していたからではないか。皮肉にもこうした政府の認識は、パート問題を女性問題とみなすパート擁護派と呼応する。
報告ではいわば常識となっている「パート問題=女性問題」というテーゼを根本から問い直すことを意図している。
日本でパートタイマー制が導入されたのは1950年代前半であるが、当初から1960年代前半までの10年ぐらいの間、パートタイムは単なる臨時・日雇い労働のちょっとシャレた表現でしかなかった。しかし、60年代に入ってから、パートで働く多数が主婦であることに政府が注目し、低賃金のままで雇用を拡大しようとする動きが起こる。また、それと対抗する形でパートタイマーの利益を守ろうとする側は、男子非正規雇用を意味する「臨時工」と女子短時間雇用を意味する「パートタイマー」とは区別させるべきであると主張し、家庭責任を担うパートタイマーに臨時工以上の処遇を要求した。
「パート=臨時工・日雇い」という意識が変わりつつある中で、それをさらに裏打ちしたのが、1966年に起きた「春風堂事件」というパートで働く女性が「既婚女性である」ことを理由に解雇された事件である。判決で出された「パートタイマーと云っても、当該労働者が常に日雇いないし臨時雇いであると断定するのは軽率であり」という結論は、当時の社会に大きな反響を呼び起こした。
このように「パート労働=女性労働」という図式は基本的に1960年代において構築されたとみられる。
また1970年代、経営側による女性労働者へのイデオロギー攻撃(被保護権利の削減)は、女性労働者の利益を守ろうとする側の反発を引き起こした。彼ら、彼女らは女性労働者が常に資本側に搾取されていると訴えながら、その被害事実を表す典型的な例としてパートタイマーを取り上げた。このような議論はパートタイマーが女性労働の一環であることを前提としており、「パート労働=女性労働」という図式をさらに強固させていたとみられる。
報告ではこの様な歴史的な経緯を辿りながら、「パート労働=女性労働」というジェンダー化された見方に異を唱え、非正規雇用問題としてとらえる立場からパート・ステータスの再論を試みたい。

発表者名:黄 綿
発表題目:「大正時代の女性同性愛言説」
発表要旨:明治後期に西洋からの知として日本へ導入されたのち、それまでの同性同士の親密な/性的な関係の概念は大きく変化を遂げた。たとえばそれまで「衆道」などと呼ばれ、武士のたしなみと成っていた男性同性愛は、明治期こそその地位を保つものの、大正時代に入ると次第に「変態性欲」と認識され、病理化されていった。女性同性愛について江戸時代の概念を知ることは難しいが、おおむね資料から伺える限りでは男性のそれよりも不可視なものであった。しかし1911年、女学校卒業生同士が新潟で入水自殺をはかり、それが「同性の愛」によるものだと大きく報道されたことで、明治後期から女性同性愛がにわかに脚光を浴びた。そして女学生同士の親密な関係は性的でなければ許され、もしも性的なものがあれば異常だとする認識が生まれた。大正期となると、女子教育の分野や性科学の分野において女学生の同性愛を防ぐ議論が活発になる。先行研究で明らかになっている内容はおおよそ以上のようなものであるが、本報告では、同時期にやはり新聞雑誌記事にて取り上げられた女学生以外の女性同性愛-女工、女給、看護婦、女優などに焦点をあて、女学生の同性愛との論点の差を追う。

発表者名:乾淑子
発表題目:「愛国婦人会、大日本国防婦人会、日本赤十字社篤志婦人会-----そのイメージについて」
発表要旨:明治34年から昭和17年までの間に活動した軍事的婦人団体である「愛国婦人会」と、昭和7年の設立以降、愛国婦人会と競うようにして会員を増やした銃後の婦人団体である「国防婦人会」については、対立的な特徴を言われることが通常であった。皇族妃を総裁として上流志向の強い愛婦、庶民的な国婦という差異について、所与のこととして扱われて来た。確かにその言説を見るとそれを認めざるを得ない。しかし、それぞれが誂えて携行した持ち物、バッジなどを見ると実際にはかなり近似したイメージを追い求めていたのではないかという疑問が生じる。愛婦と国婦のそれぞれの徽章、衣類、絵葉書などを、日本赤十字社のものと比較しながら、婦人たちの欲望と思想の一面を考察する。 
明治20年代から篤志婦人会を通じて、女性を看護の世界に誘う世論を作るために奔走した華族夫人や教育界の大物女性達の多くが、明治34年の愛国婦人会の創設にも関わった。従来も愛婦の拡大には赤十字社の組織を援用したことが知られているが、その時に用いられた。アイテムとして有り難そうなイメージを付与する徽章などの存在も忘れ ることができない。例えば、篤志婦人会の徽章を構成する「十字」「鳳凰」「竹」「桐」 のうちで、後者の三つは伝統的な「桐竹鳳凰紋」に由来するものであろう。しかも天皇などごく限られた人々にだけ許された文様由来の組合わせを、徽章の形で会員すべてに佩用を許すということが、当時の社会においてどれほどに名誉を感じさせてくれたかは、現在の私たちの感覚からは想像が困難なのではないだろうか。
愛国婦人会の徽章においても、八稜鏡という皇室でよく用いる鏡を象ったことの意味を考えたい。そして質素を売り物とした国防婦人会でも、幹部に対してのみはこの八稜鏡の形の徽章を配布している。その他にも、国婦にも愛婦と同様の高級志向が存在した例が見られるのである。これまでの研究ではとかく、このような「もの」を見落としがちであった。言葉で語られる思想、主義主張とは異なるイメージを提示する「もの」が現れた場合に、私達はどちらを信じ、どちらを排するのが正しいのだろうか。言語的に整然と語られる思想からこぼれ落ちたかすかな思いや疑念が、そのような形で表出してしまうこともあるのではないだろうか。つまり、言語的に表立って語られた「思想」も、それに反する「もの」もその団体の存立のなにがしかを分かち合って形成している
と考えられる。本発表ではそのような「もの」について、既発表の業績「愛国婦人会
というイメージ」の後に収集した新資料を中心に分析、考察したい。

発表者名:国武雅子
発表題目:「戦時期の婦人参政権運動とアジア認識」
発表要旨:戦時体制とどう対峙するかという問題は,その戦争をどう捉えるかということと不可分である。市川房枝を中心とする婦人参政権運動家たちの戦争協力がどのような戦争認識にもとづいていたかということはまだ十分に検討されていないと思われる。
中国の研究者,胡澎氏は「彼女(市川房枝)は自国の女性だけを視野に入れ,女性全体を見ることができなかった。従って,戦争の侵略性を認識できず,侵略を受けた国の女性への同情が欠けていた。」(『戦時体制下的日本婦女団体』吉林大学出版社,2005)と述べておられる。 市川たちは戦争について,他国の,特にアジアの女性たちについてどう考えていたのだろうか。
「満州事変」以前,婦人参政権運動のリーダーたちは各国の女性の参政権や政治的活躍については強い関心を寄せていたが,それは「同じ女性として」ということを前提にしており,それぞれの国の状況と国際関係についての分析はあまり見られない。「満州事変」を契機に平和を強く意識するようになり,対外政策,特に軍の行動に対する批判を表明する。その中で中国の女性に対する関心も高まっていく。盧溝橋事件以降,市川らは発言の場を確保するため対外政策に対する批判を封じて,体制に協力する姿勢をとる。「東亜共同体論」が盛んになるとこれを積極的に肯定し,協力しようとする。国内の政治との関わりが対外認識を変化させ,それが戦時体制への新たな協力につながっていくのである。
市川房枝は婦人参政権運動関係の資料を戦争中は疎開させて守った。婦選会館に保存され,整理の進んだそれらの資料をもとに,改めて戦時期の活動と対外認識の変化について検討してみたい。特に市川の1940年2月~4月の中国訪問,東亜連盟協会及び石原莞爾との関係に焦点をあてて考察をする。
自国の女性のことのみを考えたからというよりもむしろ「女性としての連帯」への思いが侵略性を認識できないということにつながった道筋が見えてくるのではないかと思う。

発表者名:大原関一浩
発表題目:「北米日本人娼婦の抵抗の形態、1900-1920年」
発表要旨:1880年代から1900年代初頭、シアトル・サンフランシスコほか北米各地に数百人の日本人娼婦があらわれた。そのほとんどが、夫/ヒモに束縛され、白人、中国人、日本人を問わず、あらゆる男性客にたいして望まないサービスを強要されていた。ある人はホテルの一室を借りて客をとり、ある人は料亭で酌婦(ホステス)として働き、ある人は400-500ドルで他人に売られた。男性の数が女性のそれを圧倒的に上まわるフロンティア社会においては女性が大きな「価値」を持ち、20世紀初頭まで、日本人売春は活況を呈した。こうした北米の日本人娼婦(あめゆきさん)は、周旋者に搾取され、日本の恥として蔑まれた「犠牲者」として語られてきたが、現実には、ヒモや雇用主による搾取に抵抗し、よりよい生活を求めた人たちもいる。以下はほんの二つの例である:
1908年7月、16歳のキノシタ・ミネさん(仮名)はシアトルのキング郡裁判所に駆け込み、夫に対して離婚訴訟を起こした。地元紙『シアトル・タイムズ』によれば、彼女はグリフィン裁判長に以下のように述べた:「私は大阪でヤスゾウ(夫)に会い、父に彼と結婚するように言われました。承諾して一緒にサンフランシスコに来ました。すると夫は私を別の男に引き渡し、その男にタコマに連れてこられました」。ミネが提出した訴状によれば、1903年にサンフランシスコに来てから夫は「原告(ミネ)に飽きて彼女に対する愛情を失い」「まるで奴隷か財産のように」彼女を別の日本人男性に売り渡したそうである。その後、ポートランドである中国人女性から「どういう形態であれ、合衆国では奴隷が禁じられており、誰もあなたを束縛することは許されていない」と教えられ、主人から逃げることを思い立たった。その後シアトルに移動し、働き始め、ついに1908年、ヤスゾウに対し離婚訴訟を起こす。夫は法廷に現れず、ミネは離婚を勝ち取った。
1908-9年ごろ、お千代さん(源氏名)はシアトルに住む夫のもとへ横浜から単身渡航した。しかし着いてみると、夫の国太郎はほとんど無一文の状態だった。地元の料亭で酌婦(ホステス)遊びに散財したのが原因である。生活費を稼ぐため、お千代さんは仕方なく、料亭「松の江」で酌婦として働きだしたが、そのうちに、客の一人川北氏と親しくなり、ある日駆け落ちする。激怒した国太郎は同県人の助けをかりてお千代さんを捕まえ、日本に帰国するよう説得する。しかし、二人は同意にいたらず、お千代さんはある夜再び逃亡する。10ヵ月後、お千代さんはシアトルのキング郡上級裁判所に現れ、国太郎に対して「扶養義務を果たさない」という理由で離婚訴訟を起こし、離婚を勝ち取る。二回逃亡し、離婚訴訟を起こし、ようやく川北氏と結婚する権利を得た。
本報告は、こうした女性たちの主体的行為(エイジェンシー)に注目し、「犠牲者」としての娼婦、あるいは家庭的な「母」として描かれてきた移民女性の新しい見方を検討したい。

発表者名:岡田泰弘
発表題目:「占領下の日本におけるアフリカ系アメリカ人女性のエンパワーメント」
発表要旨: 本発表は、占領下の日本におけるアフリカ系アメリカ人女性のアイデンティティ・主体の形成および変容について、主に人種、ジェンダー、国民化の視点から論じるものである。占領期の日本におけるアメリカ黒人に関する先行研究では、黒人男性兵士と日本人女性との親密かつ性的な関係をめぐる日本側の文化表象のポリティックスの分析に重点が置かれてきた。アフリカ系アメリカ人の視点から日本占領を考察する試みはこれまであまりなされていないが、その中でも黒人女性については、占領期の日本に関する学術的、大衆的言説のいずれにおいてもほとんど着目されることはなく、ほぼ不可視的な存在として扱われてきた。
占領期において、アフリカ系アメリカ人女性は、アメリカ陸軍女性部隊(Women’s Army Corps)や陸軍看護部隊(Army Nurse Corps)所属の軍人としてのみならず、陸軍省の文官、国際赤十字社の一員、兵士の家族、伝道師など、さまざまな立場で日本に来ていた。彼女たちは、階級や社会的地位の相違に関わらず、占領者としての政治的、経済的、社会的な特権を享受しながら、日本での体験を通してオータナティブな人種、ジェンダー、階級アイデンティティを構築していった。その中でも、陸軍省の文官として東京に駐留していた少数のアメリカ黒人女性は、占領軍組織内において多くの黒人男性兵士よりも高い地位に就き、快適なホテル暮らしやショッピングを満喫するなど、さまざまな形でジェンダー化されたエンパワーメントを達成していった。また、占領下の日本において初めて使用人を雇う立場に置かれたアメリカ黒人女性の多くは、家事労働から解放された時間をキャリアの向上やコミュニティ活動などに当てていったが、中には日本人家政婦との関係において複雑な思いを抱く者もいた。
被占領者である日本人との関係において諸特権を享受していたアフリカ系アメリカ人女性であったが、一方で米陸軍内における人種隔離・差別や黒人コミュニティ内における性差別を、日本においても継続的に経験することとなった。陸軍看護部隊の一員として横浜の病院で任務に就いていたMillie Hooksは、アメリカ側の全米黒人地位向上団体(NAACP)と連絡を取りながら、直属の上官や軍の上層部による人種差別的な処遇に対して異議申し立てを行った。また、日本における社会的地位の向上に基づき新たなジェンダー意識、役割を模索していた黒人女性は、冷戦初期のアメリカ社会の保守的なジェンダー規範や黒人コミュニティにおける家父長的な伝統の中で、「従順」な日本人女性を称賛する黒人男性側からの「バックラッシュ」に直面し、抵抗していった。
本発表では、占領下の日本におけるアフリカ系アメリカ人女性の多様な体験に焦点を当てながら、彼女たちが占領者としての特権的な地位と、占領軍内のマイノリティとして経験した人種的、性的抑圧のはざまにおいて、いかに人種、ジェンダー、国民化されたエンパワーメントを成し遂げていったのかを明らかにしたい。

発表者:横山美和
発表題目:「19世紀アメリカの月経をめぐる科学言説と女子高等教育」
発表要旨:ハーバード・メディカル・スクールの薬物学教授の経験を持つ内科医であるエドワード・H・クラークは、『教育における性別、あるいは、女子のための公平な機会』(Sex in education, or, a fair chance for the girls. 1874[初版1873])において、女子高等教育を生理学的見地から見直すよう説き、論争を巻き起こしたことで知られる。彼によれば、女性は特に思春期の月経期間は、発達のために生殖器官にエネルギーを譲るように、知的活動を控えなければならないのだった。その書はベストセラーとなり、多くの支持者を獲得したが、なぜその言説はそれほどまでに当時の人々の心をとらえたのだろうか。
彼がそのような主張をした背景には、白人の出生率の低下を女性の高等教育進出に結びつけて考えたことがあった。クラークは、月経のときに休ませない高等教育によって生殖機能の発達が妨げられたため、出生率に影響が出たと主張しており、一見無関係な出来事をいかにも科学的な理由で結び付けていることが保守層の心をとらえたようである。
また、クラークの言説は、概ねエネルギー保存則の身体への援用として解釈される(Fee 1976 ; 金森 2000 ; 小川 2001: 荻野[1990]2003 ; Russet 1995 ; 坂本 2002; Trecker 2001; Zieff 1994)。その保存則は1840年代に定式化されたが、アメリカにおいて熱狂的に受け入れられ、物理学の分野を超え、哲学や文学などさまざまな分野にも影響を与えたと言われている(Martin, 1981, ⅵ-ⅷ)。女性は月経という生理現象にエネルギーを使わなければいけないため男性より休息を取らなければならないという説明は、当時の人々には理にかなったものとして映ったのであった。
ところで、なぜクラークが特に月経に注目し重要なものであると主張したのかということについては、あまり注目されてこなかった。月経に関して、19世紀は正確に理解されていなかった(金森 2000)とか、またそのためにクラークの主張が成立したと説明されることがあるが(Bullough 1989 ; Zieff 1994)、無知や知識の空白からその言説が生じていたと考えるのではなく、それが19世紀の知の体系の中に位置していたと考えるべきであろう。1840年代頃より、ヒトの女性の周期的な排卵を主張する自然排卵説の登場によって、月経は排卵と結びつけて考えられるようになり、科学的な価値が変化した。月経はそれまで余剰な血液の排出や胎児にならなかった血液の排出作用とされていたが(Delany 1988 )、排卵にとって必要な生理現象であると考えられるようになったのだ。すなわち19世紀には月経の科学的価値観が変化したのであり、そのことがエネルギー保存則の説明と相まって、クラークの説を作り上げたといえよう。

発表者名:坪田中西美貴
発表題目:「日本統治後期の台湾先住民社会における公共圏と親密圏におけるジェンダー『シロハンケチ』を手がかりとして」
発表要旨:本研究は、日本統治下の台湾先住民特にタイヤル族における公共圏と親密権が、誰にとってどのような範囲でどのような意味を持つのかを、ジェンダーの視点から、「シロハンケチ」という行為を手がかりに考察する。「シロハンケチ」とは、タイヤル女性が慣習を破って婚前交渉を持ったと疑われた際、その疑いを晴らすために行われる狩猟のことで、獲物がしとめられればシロ、すなわち疑いが晴れるとされている。
言うまでも無いが、日本植民統治下の公共圏とは、台湾総督府による統治が行われている社会のことである。しかしその中にあって普通行政区内に置かれていないタイヤル族社会では、依然として一定の勢力を保持していた長老を頂点とし、民族的慣習を社会規範とする公共圏、すなわち「シロハンケチ」を行うよう求める「タイヤル公共圏」も同時に存在していた。
「シロハンケチ」が疑いをかける行為である婚前交渉とは、本来ならば親密圏に属する事柄であるが、それが「露見」すると、個人的出来事は、「タイヤル公共圏」で扱うべき事柄として回収される。だがここで「タイヤル公共圏」が正統性をもつとすれば、その時統治者としての日本の正統性は、そこにどのような形で関与し、関係を形成するのだろうか。また、親密圏内の出来事が公共圏に回収されるとは、どのようなことなのか。
このような問い、すなわち二つの公共圏の絡み合い、そして親密圏と公共圏との関係性は、「シロハンケチ」という出来事を手がかりにすることで明らかになってくるだろう。それは、統治という権力構造内における公共圏と親密圏の意味の問い直しを迫り、それらを成立させているものが何かを問う。またその過程で、先住民女性の身体がどのようにジェンダー化され、それが公共圏の間でどのような作用をもったのかも明確となるだろう。ただ、フィールド調査から、押し付けられたジェンダーの位置に甘んじていない女性の姿も明らかになるであろう。
この問いへのアプローチとして、まず、異なる文化や社会が一つの空間に存在する時、公共圏は一体どのような範囲で、どのように、構築されるのかを明らかにする。そして、親密圏内のどのような性質をもつ事柄が、なぜ、どのようにして公共圏へと回収されてしまうのかを分析する。その過程において、ジェンダーの公共圏、親密圏における作用の違い、そして二つの圏がいかにゆらぎやすいものかということについても浮かび上がってくるだろう。

発表者名:山田朋子
発表題目:「分割期ポーランドにおける女性解放思想の系譜」
発表要旨:ヨーロッパ各国が本格的に領土拡張に乗り出した19世紀、ポーランドの地は、ロシア、ドイツ、オーストリアの三国に分割支配されていた。ポーランド人は、祖国の独立回復をかけて武装蜂起を繰り返したが、いずれも失敗に終わる。分割期最後の蜂起となる1月蜂起が敗北した1864年以降、ポーランド人社会では分割国の権力と妥協する風潮が支配的となった。しかし第一次大戦時に三分割国の政権が敗戦あるいは革命によってあいついで倒れると、ポーランドは再び独立を回復した。日本における従来のポーランド史研究では、外国権力と闘う男性中心の民族運動や政治経済動向が分析されるのみで、女性たちが民族運動にどのように関与し、自らをどのように捉え、表現しようとしていたかはほとんど考察されてこなかった。
報告では、分割期(18世紀末~1918年)の貴族あるいはインテリゲンツィアなど上層階級に属する女性たちの著作や定期刊行物を通して、彼女らが民族運動とどのように関わっていたか、またその中で女性解放運動をどのように始め、展開させていったかを概観する。そのさい、まず19世紀初頭に出版された、愛国心を基本とした良妻賢母教育を掲げるK.タンスカ-ホフマノヴァの著作をとりあげる。さらに19世紀前半、女性の高等教育機関の実現に貢献したN.ジミホフスカの活動と著作を紹介する。
19世紀後半の権力との妥協期には、E.オジェシコヴァとM.コノプニツカという二人の女性小説家が、当時の有産階級女性の結婚生活を辛らつに描き、男性に依存する女性の不安定な生活を社会問題として提起してみせた。二人の小説家は、ポーランド社会の底流にある民族意識に共感しつつ、貧困やユダヤ人問題などの社会問題にも深い関心を寄せている。さらに彼女らは、20世紀初頭にP.クチャルスカ-ラインシュミットらが組織した、初のフェミニスト組織といわれる「ポーランド女性同権獲得同盟」を支持した。
「ポーランド女性同権獲得同盟」はその機関誌上で、女性の選挙権獲得運動や大学への入学許可を求める議論と活動を展開したほか、農村女性の悲惨な生活や売春など女性の実情をあばいてみせた。ただし民族問題や独立運動に関する議論は控えていた。これに対して社会主義者の間では、同じく女性の選挙権獲得問題が論じられる一方で、国際情勢の変化の中で民族運動や国家独立を求める議論が活発化していた。
第一次大戦が終わりポーランドが国家独立を果たした直後の1919年、女性は新国家において選挙権を手にした。その後ポーランドでは女性解放運動はさらに様々な分野で活発化するが、国家独立という政治的歴史的な大転換への対応が遅れた「ポーランド女性同権獲得同盟」の活動は、次第に忘れられていった。 

発表者名:今井小の実
発表題目:「婦人方面委員とストラスブルク制度」
発表要旨:報告者は、現在「日本における社会事業の展開と女性の社会進出の相互関係における研究」(科学研究費補助金(基盤研究(C))というテーマで研究を進めている。すでに本学会(第3回大会)でも報告したように、19世紀後半から20世紀前半にかけて欧米諸国の女性たちの社会進出の道は極めて限られており、その状況がたとえばアメリカであれば “female professional”としての social workerを創出したと言われる。
当時、日本でも女性の社会進出の舞台は限られており、その突破口を社会事業に求めた点で欧米と同じ道程を歩んでいる。しかしその後の歴史が示すように、戦前の日本では女性たちが社会事業の発展に貢献、寄与した人物として表舞台に登場してくることは稀であり、そのほとんどが男性の実践を支える舞台裏の存在としての地位に甘んじてきたのである。欧米と日本の女性たちがたどったこの状況の違いとその要因を明らかにすることは、日本の社会事業をジェンダーの視点から相対化する上で重要なものとなるはずだと考える。
今回の報告は、冒頭にあげた研究テーマの一環として、方面委員制度と女性の社会進出の関係を検討していくための第一段階の研究である。当時の女性たちが社会事業に活路を求め、その具体的な舞台として選んだ一つが方面委員だったからである。女性の参政権運動に尽力した市川房枝率いる婦選獲得同盟は、方面委員制度が全国レベルで法制度のなかに組み込まれていく時流と平行して、婦人方面委員の登用を訴えている。
そこで婦人方面委員と女性運動の関わりについて研究を進める際の媒介役として、今回はストラスブルク制度という、当時ドイツ領にあった(現在はフランス)ストラスブール市が1906年に生み出した制度に着目し、考察を深める。なぜならストラスブルク制度の特徴は、有給の専門職員と無給の名誉職員の併用であり、この制度によって「福祉」職の専門職化、女性の雇用が進展したと評価されているからである。しかも1918年に大阪府で創設され、やがて国家的な制度の範となった方面委員制度が1853年ドイツのエルバーフェルト制度をモデルに創案されたということはよく知られているところだが、実はその時期には同制度は改良の必要が認められ、ストラスブルクが創設した制度へと国民の関心はすでに移っていたのである。
しかし日本でも方面委員が救護法や方面委員令といった法律によってその地位が確立されていくなかで、このストラスブルク制度に注目が集まった時期があった。女性の社会進出という文脈からこの状況を見れば、女性の登用に積極的だったストラスブルク制度の導入の是非は、その分岐点だったともいえる。したがって同制度を媒介に婦人方面委員の採用について検討をすることは、日本における社会事業の展開と女性の社会進出の相互関係を研究する際の重要な課題となるのではないだろうか。本報告ではこの問題意識にそって、婦人方面委員とストラスブルク制度について検討を行う。この時期のストラスブルク制度と婦人方面委員の採用という議論が交錯する社会事業系の雑誌の論文はすでにレヴューし報告を行っている(2009年5月社会事業史学会)。そこで今回の報告ではその研究をベースに、日本の女性運動家たちがどのようなアプローチで婦人方面委員の採用を主張していったのか、婦選獲得同盟の機関誌のレヴューを検討に加え、さらに考察を深めたい。

シンポジウム趣旨説明
 昨年夏に米国から始まった金融恐慌は、現在もなお全世界的に影響を及ぼして いる。また今年春に発生が確認された新型インフルエンザの感染地域は、拡大を 続け、各国での罹患者と死者は、急速に増大している。また、地震や洪水など 地球温暖化に起因する災害も頻発している。
 ジェンダー史学会第6回年次大会シンポジウムでは、こうした経済不況、パン デミック(世界的流行病)、災害などとして現出している、いわばカタストロフィ とも称すべき今日の状況を、「秩序崩壊、秩序変容」との関係で捉え、この問題を 歴史的文脈から考察する。そしてその際、「日常性維持機能」を継続する基盤が 大きく揺るがされ、社会秩序体制維持の装置として組み込まれ機能していた ジェンダーのあり様が、浮き彫りにされ、混乱を来たし、また「復興」の過程で、 新たな社会秩序体制への変革と再編強化の両義的可能性を孕みながら展開する 様相が呈されることに注目したい。
 今回のシンポでは、その様相を、17世紀前半のイタリア都市における疫病ペスト、 19世紀中葉と20世紀初頭の日本における地震、敗戦とインフレに見舞われた20世紀 初頭ドイツの大量貧困状況の3つの事例を取り上げることにより、その具体相を 分析しながら、歴史的視座からジェンダー秩序の変容と再編について考察する。 さらには、歴史的な波動の中の定点として現在を捉え、過去の事象の分析を通じて、 示唆的な知見を与える学問の一つとして、ジェンダー史学の意義を議論したい。

ペスト危機とジェンダー表象:
近世イタリア諸都市におけるペスト犠牲者イメージの創出
新保淳乃
西欧世界において三大災厄とされた戦争、飢饉、疫病の中でも、14世紀半以降18世紀初頭まで周期的に大流行したペストは、罹患率・致死率とも群を抜いて高く、原因・対策も不明なまま短期間で多くの人命を奪い社会秩序を崩壊させる大危機として恐れられた。最後の審判にも比されたペスト危機に対して、16世紀前半より都市単位の検疫隔離政策が一般化し、ペスト禍は一個人の生死を越えて、一都市社会の存亡に関わる問題となった。本報告では、近世イタリアの都市行政府が、ペストからの救済を神に嘆願・感謝する公的奉納物として注文制作させたペスト行列幟や祭壇画を取り上げ、ペスト危機がどのように表象されたのかを検証する。とりわけ、1630年、1656年の大ペスト関連図像から、中世末とは異なるペスト犠牲者像の創出を指摘する。ペスト危機を代理表象した特定のジェンダー表象を通して、都市行政府・芸術家・イメージ受容者の間でいかなる社会秩序の回復が叫ばれたのか。危機の可視化に内在する選別と排除の論理を再検し、現代の危機表象への警鐘としたい。


地震災害の復興シンボルはなぜ女性なのかー江戸地震(1855年)と関東大震災(1923年)からの考察ー 
北原糸子

地震という自然災害は既成の社会秩序をどの程度に揺さぶり、また、社会はそれにどのように対応したのかを考察する。江戸地震(1855)では200点ほど残されている「鯰絵」を取り上げ、そのなかで地震を表徴する「鯰」がどのように変容していくのかを分析の手掛かりとする。また、関東大震災では周知のように戒厳令が敷かれた。このことはこの自然災害が国家的危機として認識されたからに他ならないが、震災前
と震災後の比較を通して女性の社会的位置づけがどのように変化していったのかを考え、併せて近世と近代の社会的危機におけるジェンダーの位相を考えることにしたい。

敗戦・インフレ・大量貧困-1920年代ドイツにおける女性福祉職員の日記から
中野 智世

敗戦とインフレ、世界恐慌と、未曾有の危機に見舞われた1920年代のドイツを事例として、生活の崩壊、生存維持の危機とジェンダーとのかかわりについて考える。分析の手がかりとするのは、当時、女性の職業として確立したばかりの女性福祉職(Fuersorgerin)という存在である。当時のドイツはいわゆる福祉国家への助走期にあり、公的福祉の制度化が進められつつあった。全国各地の自治体には福祉事務所が設置され、人々の生活支援を直接的に担う専門職として行政機構の末端に配置されたのが女性福祉職員であった。こうした対人援助業務は、当時典型的な女性の領域とみなされており、福祉職は、看護婦や保母同様、典型的な女性の職種のひとつとして確立したのである。しかし、福祉国家の理想とは裏腹に、当時の福祉の現場を直撃したのは失業と大量貧困であり、無数の「個人的カタストロフィ」であった。本報告では、ある女性福祉職員の目を通して、多くの人々の生活が根底から揺らぐさまを垣間見るとともに、「無私の援助者」あるいは「秩序維持者」としての役割を課せられた彼女たちの日常と内面的葛藤を描きたい。

公開シンポジウム
テーマ:「近代アジアの出産と介助者―ジェンダーの視点から」

日時:2009年6月6日(土)13:00~17:00
会場:奈良女子大学 生活環境学部A棟1階会議室
〒630-8506 奈良市北魚屋西町(近鉄奈良駅から徒歩約5分)

報告1:松岡悦子氏(奈良女子大学教授)
「なぜ産婆は専門職化に失敗したのか -戦前の「産師法案」をめぐる動きを通して」

報告2:傅大為氏(台湾・陽明大学教授)
「植民地時期の台湾における医療の近代性と出産・産婆」
 *中国語による報告となりますが、日本語レジュメと日本語pptを準備します。

報告3:姚毅氏(フェリス女学院大学講師)
「近代中国における産科医と助産士の境界をめぐるポリティックス」

コメンテーター:石崎昇子氏(専修大学講師)
司会:野村鮎子氏(奈良女子大学教授)

ジェンダー史学会、奈良女子大学アジア・ジェンダー文化学研究センター共催(創立百周年記念事業)
アクセスは、以下の奈良女子大学HPを御覧下さい。
http://www.nara-wu.ac.jp/accessmap.html

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